|
文藝峰 映画『軍用列車』(1938年)(DVD「発掘された過去2番目」収録)、韓国映像資料院、2008年 |
女優と聞いて、人はどのようなイメージを思い浮かべるのだろうか。おそらく、だれしもがそれぞれ一人の女優さんを思い、頭の中にそのなじみの顔や姿をありありと描き出すのではないだろうか。捕まえどころのないそのイメージは、光と影の織りなすスクリーン上にたゆたう幻と同じである。スクリーンに映し出される女優の幻影を見て、心が癒されたり、慰められたり、そして前へ進む意欲や活力が湧き出てくるという現象は、だれしもが経験していることだ。そのような女優の幻影に我々は魅せられ、好きになり、その女優のことを好きだと言う。日本の植民地時代、3000万人もの朝鮮国民に好かれた女優さんがいた。「3000万人の恋人」と呼ばれた朝鮮映画界のスター女優・文藝峰である。
文藝峰は、1917年に咸鏡南道の咸興郡(現:朝鮮民主主義人民共和国の咸興市)で生まれた。演劇人であった父親の影響で幼い頃から演技を身につけ、32年には映画界入りした。『主なき小舟』がデビュー作で、「民族英雄」と呼ばれた監督兼俳優の羅雲圭と共演し、脚光を浴びた。最初のトーキー映画『春香伝』にも出演し、歴史上初めてしゃべる春香となる。その後多くの映画で主役を務め、たちまちスター女優となった。戦時下には、映画統制政策により大東亜共栄圏を主唱する日本、満州との合作映画に出演した。その多くは戦争イデオロギー宣伝映画である。日本による統治終了後は、スクリーンから姿を消し、48年、左翼思想を奉じる夫・林仙圭と共に北に渡った。北朝鮮国家の建設後は、映画界の先駆者として存在感を示したが、69年に粛清され、演技活動を中断する。しかし、79年に復帰、政治活動を行いながら、晩年まで演じ続け、99年に他界した。
このような紆余曲折のため、韓国において文藝峰は、歴史的にも政治的にも忘れられた存在だった。ところが、2003年から「韓国映像資料院」が手がけた朝鮮映画発掘事業によって、文藝峰の出演映画作品が発見され、朝鮮映画研究が活気を帯びる中で、女優文藝峰も注目されるようになった。だが現在、一般大衆の間で彼女を知っている人はきわめて少ない。しかも、韓国で文藝峰は、戦時中の対日協力ゆえに、09年には「親日人名事典」に登録され、また韓国百科事典では「北朝鮮女優」と呼ばれている。これだけでも、文藝峰が送った波乱万丈な人生が偲ばれよう。女優として激動の朝鮮史を体現した文藝峰は、どのような人物だったのか?
私は女優という立場から、苦難の時期にあって民族の心を捕まえたスター文藝峰に注目してきた。中でも、女優の文藝峰における役者、演技者という本質的側面に光を当てている。女優というのは、「演じる」職業を持つ女性のことを意味し、現在誰でもが口にする単語ではあるが、その歴史は古い。日本の女優史、そしてとりわけ朝鮮女優史は、意外と光を当てられていない分野なのである。
李瑛恩 韓国の女優(イ・アイ)。日本大学芸術学部で、学士、修士、博士の学位を取得。主演作として『大韓民国1%』『ダイナマイト・ファミリー』などがある。