金鶴泳の作品は、氏がデビュー小説『凍える口』で文藝賞を受賞して以來、有力文藝誌に連載され續け、代表作も韓国語に翻訳された。また、『あるこーるらんぷ』執筆中に、氏の選集が『新鋭作家叢書』(河出書房新社、全18巻)の一巻になることが決まつた。80年代に入ると、金鶴泳文學が研究の對象にもなりはじめた。成美子が『朝鮮研究』(1981年10月號と11月號)に『金鶴泳の文学』を発表し、翌年に竹田青嗣が『早稲田文学』(82年6號~8號)に『金鶴泳論』(83年に『〈在日〉という根拠―李恢成・金石範・金鶴泳』といふ單行本に收録)を著した。
ある作家の生存中に自作が繼續的に文藝誌に連載され、外國語に翻譯され、さらに研究されることは、その作家がある程度認知・評價されてゐることを物語つてゐる。思へば、さういふ作家はそれほど多くはゐない。にも拘はらず、「金鶴泳日記抄」を讀むと、氏が執筆するに當たつて抱へてゐた「不安な憂愁」は決して消えなかつたことが分かる。70年6月17日附の同日記を引用しよう。
「五時半に起き、書き続けたが、午後三時になっても十枚しか進まず、五十二枚のところでペンが止まってしまう。そしてこの作品はダメだと思わざるをえない。もっとよく考えて、根本的に書き直さねばダメだ。がっくりする。筆を投げる。化学の実験を書いた小説が新鮮に感じられるとすれば、それは実験のシーンそのものが新鮮だからということではなく、そういう実験のシーンによって触発される登場人物の心の動きが新鮮に感じられるためにほかならない。ところが『あるこおるらんぷ』の場合はただ実験のシーンだけに終わっている。だから味も素気もなく詰まらない。」
この箇所が示してゐるやうに、金鶴泳を襲つてゐた憂鬱は、前囘のコラムで觸れた生活難のみならず、自作に對する不安にも起因してゐた。しかしその不安は『あるこーるらんぷ』の執筆を切つ掛けに現れた譯ではない。70年6月11日附の日記に「執筆に精を出しているときはよくそうであるように、不安な憂愁の感情にとらわれがちだ」と綴つてをり、創作とは氏を精神的に不安に陷れる行爲であつたやうに思はれる。それは、恐らく數年前に同日記に書き留めてゐた樣に、自作に對する評價を、自己に對する評價と同一視してゐたからであらう。
「私が自分の小説について、絶望的な気持になるということは、じつは、自分という人間について、自分の人生について絶望的になるということである。だから、自分の書いたものが拙劣であることを知らされることは、恐ろしいことだ。『おまえの作品はだめだ』という声が、『おまえはだめな奴だ』というふうに聞こえるのだ。深い憂鬱に突き落とされざるをえない。」(1966年8月17日附)
<この文章は旧仮名遣いです>