大韓民国の建国史(196)民政への移譲を前に革命同志の間で内燃する葛藤

日付: 2020年06月03日 00時00分

 改正憲法の第4条は新設された。
「大韓民国は国際平和の維持に努力し侵襲戦争を否定する」とあった。前の憲法では「大韓民国は、すべての侵略的な戦争を否定する。国軍は、国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とする」(第6条)となっていた。つまり、海外へ派兵するときは国軍の設置目的に違背する可能性が提起された。朴正煕はベトナム戦争への派兵を考えていたが、ある日、憲法改正の実務責任者の李錫済法司委員長がきて、問題を提起した。
「閣下、6・25戦争の時、国連の16カ国が軍隊を送って韓国を助けてくれましたが、逆の状況で、われわれも軍隊を海外へ送ることがあり得ます。それで、国際平和のために派兵できるように条文を作成しました」
朴正熙はこの条項に対して真剣な顔で聞いた。彼は「ちょっと考える時間が欲しい」と言った。朴正煕は何時間後、李錫済を呼んで、「海外派兵を可能にしなさい」と指示した。こうして、その3年後、国会がベトナム戦争への派兵を議決する際「憲法違反」の論争を避けることができた。第3共和国憲法は、国会議員の候補者は、所属政党の推薦がなければ出馬することができないようにすることで、無所属の立候補を封鎖した。国会議員は任期中党籍を離脱するか、変更したとき、または所属政党が解散されるときは議員職を喪失するように規定した。政党政治を強化する目的だった。
1962年12月6日を期して、戒厳令が解除され17日、国民投票で憲法改正案が確定した。12月20日から大統領選挙法と国会議員選挙法の改正作業が始まった。12月23日、ウォーカーヒル・ホテルの竣工式に出席した最高会議委員たちは、ホテルの韓国館で仮称「再建党」の秘密結党成作業を指揮してきた李永根中央情報部次長からの報告を聞いた。
「党総裁を中心として一糸乱れず働く政党を作るため、事務党員優位の二院制政党を作りました」「革命主体中心の軍人出身政党と言われないため、神経を使わねばなりませんでした。それで、政治の垢の付いていない人望のある人士たちを選んで党を組織しました」「派閥のない政党を作るため、自薦他薦の政治志望は一人も入れませんでした」「国会議員になる希望をもっている革命主体には、比例代表制の国会議員という道を用意しました」
秘密結党作業から疎外されていた多くの最高委員たちが反発して祝宴は騒然となった。
冬眠していた政治が民政移譲の季節を迎えて動き始めながら、革命主体勢力の内部には、亀裂が生じた。
問題の「再建同志会」の組織は、朴正煕金鍾泌李永根康誠元ラインが主導した。金鍾泌情報部長は、政策研究所の行政官の康誠元少領に仕事を任せ、この結党作業の防弾役をする人物として、陸士8期の同期の李永根中央情報部次長を指名し、事務総長に出向させた。康誠元は、政治活動が禁止された期間に、革命主体勢力が事前組織をする理由について、このような論理を出した。
「政治活動が再開すれば、アマチュアたちの私たちは、旧政治家たちに勝てません。(だから)その前に準備せねばなりません」
斬新な政治勢力を作るために、事前組織という反則をした革命政府は、また大きな反則をする。「証券波動」を起こし巨額を作り、それを結党資金などに充てたのだ。問題が表面化するや最高委員たちも動揺した。   (つづく)


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