日羅は、馬子王に協力した結果、百済の従者らに命を狙われることになります。日羅が殺されたのは、来日した年(583年)の12月30日とされていますが、兵庫県尼崎市にある大覚寺の縁起によると、日羅上人が605年に創建した燈炉堂が起源と伝えられ、また創建年は不明ですが、日羅創建と伝えられている明日香村の威徳院などもあることから、583年以降も生存していた可能性がありそうです。
馬子王が日羅の献言を忠実に受け入れたとしたら、威徳王や王子らを倭国に呼んだと思われます。しかし、威徳王が来たという記述は見当たらないので、威徳王の王子が呼ばれた可能性があります。その時期は586年頃と推測できますが、まさにその586年に「泊瀬部皇子」が初めて日本書紀に登場します。
それは、586年5月の、三輪君逆が殺害された事件でした。三輪君逆は、馬子王の寵臣です。事件の全容を要約すると、次のようになります。
『穴穂部皇子が、炊屋姫皇后がおられる所に押し入ろうとした。しかし、三輪君逆が宮門を固めて入れなかった。穴穂部皇子は七度も門を開けよと叫んだが、逆はついに開けなかった。そこで穴穂部皇子は、逆を切り捨てようと思い、物部守屋と共に兵を率いて磐余の池辺を囲んだ。逆は本拠の三輪山に逃れたが、夜中に山を出て後宮に隠れた(ある本には、穴穂部皇子と泊瀬部皇子の二人が共に計画して、物部守屋に逆の殺害を命じたとある)。寵臣が殺害されたことを知った馬子大臣と炊屋姫皇后は、共に穴穂部皇子を恨み、天下は程なく乱れるだろうと言った』
このように、日本書紀には事件の首謀者は穴穂部皇子、あるいは穴穂部皇子と泊瀬部皇子の二人であると記されています。
穴穂部皇子は、欽明天皇の子・泥部穴穂部皇子のことと思われますが、「泥部穴穂部」の意味は<泥で作った墓の穴の部分>なので、「死んでいる人」とも解釈できることから、実体のない架空の人物ということになります。そのため、日本書紀において「穴穂部」「泥部」「間人=人に知られない人」などの名前が付く人物は、すべて架空の人と考えられます。例を挙げれば、安康天皇(在位454~456年)の名「穴穂」、聖徳太子の母とされる「泥部穴穂部皇女」、孝徳天皇(在位645~654年)の皇后とされる「間人皇女」などです。
穴穂部皇子が架空の人物と推察されることから、三輪君逆は、泊瀬部皇子単独の計画によって殺されたことになります。すると、この事件の真相は、次のようになると思います。
「泊瀬部皇子こと、威徳王の王子が、馬子王に呼ばれて倭国にやって来て間もない頃に、王子は滞在先の倉梯宮からも近い馬子王の皇后・炊屋姫の宮の中を見ようと出かけて行った。しかし、馬子王の寵臣・三輪君逆が宮門を固めて入れなかった。恨んだ威徳王の王子は、物部守屋に三輪君逆の殺害を命じた」
大和の地に入った威徳王の王子は、まずは軍事を掌握していた物部守屋を味方につけ、三輪君逆を殺害します。その後、守屋と共に倭王・馬子の排除に乗り出しました。