大韓民国の建国史(194)野山のテントで在日青年を感動させた朴正煕大統領

日付: 2020年05月20日 00時00分

 尹隆道など在日韓国青年会を結成することになる青年たちが、日本各地から「60万、新しい心植える」代表団として訪韓したのは1975年4月、植木日の直前だった。尹氏は訪韓団の代表だった。一行には、事前に知らせなかったが、この行事はソウル近郊の野山で行われる青瓦台(大統領府)の植木行事に参加することが目的だった。朴正煕大統領は、関係機関の建議を受入れ、在日韓国青年たちとの植木行事をすることにしたのだ。朴大統領は、野山で近接警護官たちを退け、在日青年たちと一緒に木を植えた。当日はこの行事を企画した関係者たちは、冷や汗を流したという。
シャベルを持った100人以上の在外同胞青年たちの中に大統領が混じっていることから、万が一の不祥事でもあったら大変だった。青瓦台関係者はもちろん、行事に同行した民団中央本部の幹部たちもドキドキした。だが、朴大統領は気さくに青年たちと一緒になって木を植え、参加者全員と10人ずつの小規模の記念写真撮影に快く応じた。戦争と疾風怒涛の時代を生きてきた革命家・朴正煕の姿だった。実際に、この行事の4カ月後、金日成が送った刺客の文世光の狙撃によって陸英修女史が亡くなる。
昼休みになった。皆が用意されたお弁当で昼食をした。その際、朴正煕大統領が、青年代表だった尹隆道を大統領のための小さなテントの中へ呼んだという。大統領は尹青年に聞いた。
「尹君はお酒を飲むのか」
快活で積極的な性格だった尹隆道は、「はい、飲みます」と遠慮なく答えた。
朴正煕大統領は、尹青年にヤカンに入れられたマッコリを注いでくれた。ところで、大統領が注いだマッコリの色は黒かった。朴大統領は言った。
「これは美味しくはない。トウモロコシで作ったからだ。今、韓国は米でマッコリが作れない。米が足りない。米を自給できるようになれば、そのとき、米のマッコリが飲めるようになるさ。美味しくなくても飲みましょう」
「はい、いただきます」
尹隆道は喉がつまり、目が熱くなった。
演劇と映画俳優活動もした進歩的で自由奔放だった尹青年は、朴正熙は軍人出身の独裁者という認識を持ってきた。当時、すべてのメディアが朴正煕大統領を冷たい独裁者、冷血漢と描写していたから当然だった。
尹隆道氏は後に、知人たちに、「自分は朴正煕大統領から黒くおいしくなかったマッコリを受けて飲んだその戦慄の瞬間、偉人・朴正熙を心から尊敬するようになり、熱烈な支持者になった」と回顧した。
朴正煕体制を軍事独裁と罵倒、打倒を叫んで、韓日国交正常化に反対していた在日青年が、禿山の国土を青くすることに寄与したいと訪ねた祖国の京畿道のある低い丘で、祖国の現実を見て悟ったのだ。
偶然、大統領と向かい合ってお弁当を一緒に食べた短い縁を通じて、植民地で生まれ、激動の歴史を全身で生き、祖国の近代化のため命をかけた革命家、人間朴正煕の真の姿を見たのだ。
当時のこの植木行事は、国立映画製作所が記録映画として製作して残っている。朴正煕大統領は、その年の光復節に日本からソウルに潜入した北韓工作員(文世光)によって夫人を失ったが、翌年に在日韓国青年たちと再びソウル近郊の山で警護員を配備し、植木行事を行った。  (つづく)


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