ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~30 5月から始まる農村動員戦闘

日付: 2020年05月13日 00時00分

 金日成・金正日時代に外国のトップが北朝鮮を訪れると、平壌市民をはじめとする北朝鮮の国民は、その訪問期間中にたくさんの街頭行事に動員されていた。
この苦労は、外国首脳団が帰ると終わるが、インドネシアのスカルノ大統領が金日成に捧げた「金日成花」は今も北朝鮮国民を苦しめている。北朝鮮国民にとって金日成に対する非難は命取りになるので、代わりにスカルノ大統領をずっと非難してきた。栽培が本当に難しい「金日成花」に関わるたび、スカルノという人が嫌いで仕様がないのだ。
4月15日の金日成生誕祭後の思想闘争会が4月末に終わると、5月初旬から全国に農村支援動員令が出され、高校1年生からの1~2カ月間、指定の農村に組織別で派遣される。特別な機関企業所や軍部関係、漁民などの特別な人以外は、みんな農村支援へ行くのだ。ここで困ったのは、終わったばかりの思想闘争会の影響で社会の雰囲気が暗く、お互いに激しく思想闘争をしたから個人同士も話がしにくくなっていることだった。
この対策だったのかは分からないが、高校生から大学生は5月初旬に派遣農村に行ってすぐ、農村の代表的な祝日である5月5日「端午節」を迎える。そこで同じ部屋に泊まる人同士で話をするようになってくるのだ。各々が家から持ってきたお菓子などを一緒に食べながら、硬くなった雰囲気を柔らかくした。
労働者たちは、労働者の祝日である5月1日「メーデー」を組織別に祝う際に酒を酌み交わすと、雰囲気が少しは明るくなっていくのだ。
約30人のクラスの中にも農村支援戦闘に行かない子もいて、小さいときから金日成と金正日の近くに行くことが決まっている子(この子は5課対象という)、身体が弱い幹部の子、理数系の成績が優れていて将来「核」分野に行く子(この子は地域で管理している)、そして親が凄く高い地位にいる子だ。親が高い地位にいる子が通う学校は地域ごとに別にあるが、成績などに問題があって一般学校に通っている子もいた。結果的に約30人の中で農村支援戦闘へ行く子どもは20人ぐらいだった。この人数で国から出されている定員30人分のノルマを達成しないといけないので、朝5時から夜の周囲の見えない時間まで働くのだ。
農村動員のための支度は作業服の準備から凄く大変で、特に雨着と間食の準備を下手にやると農村動員期間中ずっと苦労した。田植えの時期は雨が降る中での作業が多く、丈夫な雨着が必要だが、幹部とお金持ち以外は手に入らないため、雨に濡れながら働くのが普通だった。それで風邪を引いて作業に参加できないと、ただでさえ厳しい作業量が増えるからみんなからいじめを受けたりして、熱が出ても作業に行く子が多かった。農村動員期間中は日中の仕事量が多くて凄くお腹が空いてくるので、みんな間食の準備に力を入れるが、経済的に貧しい家庭の子はそれもできない。間食としてはとうもろこしのインスタント粉が必須品で、水を混ぜて餅にしたものを寝る前に食べて、お腹を満たすのが農村動員期間中の基本ライフスタイルだ。先生は生活レベルが等しい子たちで宿泊グループを作った。貧しい子たちはお腹が空いたまま寝ていて、男の子たちはあまりにもお腹が空くと、盗みをやって処罰されたりしていた。
金日成はトップの座についた瞬間から北朝鮮国民に「白米ご飯にお肉スープを食べさせ、瓦家に住まわせる」と叫んで、金氏3代にわたって毎年農村に対する資源調達と労働支援を国民に要求しているが、現在まで激甚な食糧難は続いている。
農村での厳しい階級闘争下で、1958年8月に土地と生産道具を組合に統合させ、ただ労働力の質と量によって分配する社会主義形態の農業協同化が完了し、「里」という組織単位で共同農場の生産と消費を管理した。このときから社会主義経済構造は構築されていたが、これは現在まで多くの問題点を抱える北朝鮮体制の代表的な一例となっている。
(つづく)


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