大韓民国の建国史(192)荒廃した国土を回復させた象徴の迎日湾砂防事業

日付: 2020年04月22日 00時00分

 韓国は1971年「国立公園」を導入し、都市の外郭に開発制限区域としてグリーンベルトを指定するようになった。セマウル運動が72年に始まり、内務部の全組織が山林緑化に積極的に介入、植木はもちろん、植木後の事後管理に一層力をいれた。朴正煕大統領は、山林緑化と保存を地方行政の第一線の責任者である市長や郡守(郡長)に責任を取るようにした。山林緑化と保全課題に失敗すれば解任された。
ところで、飛行機で韓国領空に入るとき、最初に出合う迎日湾一帯は完全に禿山だった。上空から見た日本の濃い森林と韓国の関門である迎日湾の荒涼とした山は、あまりにも対照的だった。
迎日湾一帯の山々に木を植えて緑化する砂防事業は07年、最初の試み以来、50回以上の小規模の砂防事業を行ったが成功しなかった。母岩層が泥岩と頁岩層なので一度荒廃すると、回復が難しい土質と判定された。
この迎日湾の砂防事業は71年9月、優秀セマウルを視察するため、浦項の烏島里を訪問した朴正煕大統領が「国際航路の玄関口である迎日地区の集団荒廃地を復旧復せよ」と指示して始まった。
72年の3月から、以前の失敗要因を分析、試験砂防をした。急傾斜のためすべての作業は、人力で行われた。急傾斜の岩を掘り、石垣を築き、土を入れてから、やせた土地でもよく育つクヌギ、赤松、黒松などを植え、斜面に萩やアカシアや草の実を播種した。婦女子と子供まで延べ360万人余りが動員され、5年間昼夜を問わず水がめで水を運ぶ闘いをした。傾斜面の砂地を山頂まで往来し、岩くずの土壌を変え、何度も何度も繰り返し木を植え培った。荒廃していた迎日湾は77年、ついに青い森に変わった。世界の砂防工事や山林緑化事業の模範となった。ここに07年、砂防記念公園が作られた。砂防技術教育センターでは、今も毎年700人を教育している。山林緑化と砂漠化防止に苦労している外国からもここを訪れる。
山林緑化の成功には、多くの専門家たちの献身があった。その中でも、日本九州大学農学部林業科を出て韓国人として林業分野の最初の博士号を受けた林木育種学者の玄信圭博士は、韓国林業の代父と呼ばれる。
玄信圭は解放後、米軍政庁の要請で林業試験場を再建し、米カリフォルニア大学バークレー校で森林遺伝学を研究した。
52年に帰国した玄博士は、ソウル大学農大学教授として、イタリアポプラの木を韓国の風土に合う品種を改良して全国に普及した。また、米国原産のリギダマツとテダ松の新しい雑種であるリギテダ松を作って62年に米学会誌に発表した。
この雑種の松は不毛な砂地でも早く育ち寒さにも強かった。この木は、ヨーロッパの雑種のカラマツとのエテニュラディアタ松に続いて交雑育種に成功した世界で3番目の事例として国際的に紹介された。米国森林局はこの品種を、米のイリノイ州とミシガン州の炭鉱開発によって荒廃した森林の回復に活用した。米国で。62年、対韓国援助を削減しようとしたとき、この木が援助の代表的な成果として提示されて削減案を否決させたほどだ。
玄信圭は、ヨーロッパ原産のギンドロと韓国原産の水原ポプラを交配し68年、銀水源ポプラを開発した。この木は、山地でもよく育つため73年、治山緑化10カ年計画によって全国に大量に植えられた。
(つづく)


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