次に、稲目・蝦夷・入鹿の各倭王が改葬された場所を考えてみたいと思います。
石舞台古墳(稲目)と丸山古墳(馬子)を直線で結ぶと、その直線上に小山田古墳(蝦夷)と菖蒲池古墳(入鹿)があることは、すでに述べました。近年、天文図・四神図などの壁画が描かれた「高松塚古墳」と「キトラ古墳」が発見され、大きな注目を集めました。そのキトラ古墳と石舞台古墳、丸山古墳の3地点を直線で結ぶと、「55度・65度・60度」の三角形になります。
次にキトラ古墳と小山田古墳を直線で結び、その直線に平行して菖蒲池古墳から南方に直線を延ばすと、高松塚古墳にぶつかります。この高松塚古墳までの距離は小山田古墳とキトラ古墳を結んだ直線距離の、ちょうど半分になっています。そして、この高松塚古墳と、蘇我入鹿の首塚、菖蒲池古墳、の3地点を結ぶと「25度・25度・130度」の二等辺三角形になり、この形は3者の強い関連を示しています。
また、石舞台古墳からほぼ真西の方向に、欽明天皇陵があります。高松塚古墳と欽明天皇陵は、石舞台古墳―丸山古墳―キトラ古墳に囲まれた三角形の中に納まっていることから、これらの七つの古墳は強い関連を示していると思われます。
以上のことなどから判断して、稲目王↓欽明天皇陵。蝦夷王↓キトラ古墳。入鹿王↓高松塚古墳へと、それぞれ改葬されたと推定され、その時期は藤原不比等が主導した『日本紀』の完成前の720年以前だったと考えています。
四人の倭王それぞれの墓と、改葬先を推定することができましたが、日本で最大の方墳はどこにあるのか気になったので調べてみました。
それは、丸山古墳から西にわずか1600メートルの橿原市鳥屋町にある、「桝山古墳」でした。しかし、この一辺85メートル・高さ15メートルの三段築盛の方墳は、明治政府により、垂仁天皇の叔父・倭彦命の墓に治定されて、前方後円墳に改造されていました。
桝山古墳から300メートルほど北に行った所に、前方後円墳の「宣化天皇陵」があります。宣化天皇は蘇我稲目であろうと、すでに考証し(蘇我氏(1))、蘇我稲目の墓は石舞台古墳に比定済みです。では、宣化天皇陵には誰が葬られているのでしょうか。
宣化天皇紀によると、天皇陵には皇后の橘姫も合葬されていると記されています。宣化天皇は稲目王でもあることから、橘姫は稲目王の王妃であり、また馬子王の実母の可能性があります。そして、その墓は蘇我氏の「方墳」でなければならないのです。
これらのことを考え合わせると、明治政府によって前方後円墳に改造されてしまった方墳の「桝山古墳」が、稲目王の王妃・橘姫の墓であろうと推定されます。すると、倭彦命の墓は、宣化天皇陵に治定されている「前方後円墳」ということになります。
ところで、石舞台古墳は南北の中心軸が東に約10度傾いています。小山田古墳と菖蒲池古墳は、西に約15度、丸山古墳は西に約30度傾いています。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。ある日、世界地図を広げて奈良から東に10度の線を引いてみたところ、ロシア極東のアムール川(黒竜江)河口付近に行き着き、西に15度の線はアムール川中流域に、そして西に30度の線は内モンゴル自治区の大興安嶺の北部に行き着きました。