司馬達等は、蘇我馬子が仏舎利を求めた時に即座に提供した人物であり、蘇我稲目・馬子とともに仏教に帰依し、585年頃に亡くなったと推察されます。
都塚古墳と石舞台古墳を結んだ直線をそのまま北方に延ばすと、蘇我馬子が588年に創建した「法興寺」に行き着きます。3者には強い関連が認められることから、石舞台古墳を、570年頃に死去した蘇我稲目の墓に比定したいと思います。
明日香の甘樫丘の南に、近年発見された「小山田古墳」があります。この古墳は、最近の調査によると南辺が80メートル以上の国内最大規模の方墳ということがわかり、大きな話題になっています。この方墳のすぐ西側に、約30メートル四方の方墳「菖蒲池古墳」があります。日本書紀の『蘇我蝦夷は、双墓を生前に造った。一つを大陵といい、蝦夷の墓。一つを小陵といい、入鹿の墓とした』という記述から、小山田古墳を蝦夷の墓に、菖蒲池古墳を入鹿の墓に比定したいと思います。
石舞台古墳・小山田古墳・菖蒲池古墳の3地点を線で結ぶと、一つの直線になります。更にその直線を西方向に延ばすと、「丸山古墳」に行き着きます。この四つの古墳が一直線上に位置していることから、丸山古墳を蘇我馬子の墓に比定したいと思います。
しかし、この丸山古墳は「方墳」ではなく、奈良盆地にある前方後円墳の中で最も遅く造られたとされる、墳長318メートルの奈良盆地最大の「前方後円墳」なのです。馬子の墓だけが、なぜ大和王朝の墓制である前方後円墳として現存しているのでしょうか。その謎とともに、3人の蘇我氏の方墳が原状を留めていない理由について考えてみたいと思います。
720年に完成した日本紀は、中臣鎌足の次男・藤原不比等が主導したと思われますが、不比等が日本紀の編纂を決意した目的は、父・鎌足が倭王を殺害して倭国を滅亡させたという事実を隠蔽するためであり、また、子孫のためにも藤原氏の祖・鎌足は、悪い人物を排除した正義の人として歴史に刻まなければならなかったからであろうと考えています。そのためには、蘇我氏を大臣とし横暴な人物・入鹿を討伐したという大義名分にして、鎌足の行動を正当化しなければならなかったのです。なお、鎌足が倭国を滅亡させなければならなかった理由については、今後【中臣鎌足】の項目で詳しく考察する予定です。
蘇我氏が倭王だったことを隠蔽するためには、史書の改ざんと合わせて目に見える壮大な「方墳」も破壊する必要がありました。そこで不比等は、四人の方墳を次々に破壊させたようです。しかし、馬子王の方墳のみを石室を再利用して「前方後円墳」に改造させましたが、後円部の中心にあるべき石室が中心から約20メートルもずれてしまいました。これは、改造工事監督の設計ミスだった可能性があるように思います。
藤原不比等が馬子王の墓だけを前方後円墳に改造させた理由の一つとして、次のようなことが考えられると思います。
不比等の最初の妻が、蘇我馬子の孫である蘇我連子の娘・娼子であり、長男・武智麻呂と三男・宇合の実母であることを考慮すると、息子達の母方の先祖である倭王・馬子を大和王朝の子孫であるかのように装うために、大和国最大の前方後円墳に改造し、そこに葬られた偉大な人物の子孫が武智麻呂と宇合であると、目に見える形で示そうとしたのではないかということです。