講師:勝股 優
万華鏡は別名百眼鏡。鏡内部に封入された対象物の映像を鑑賞する筒状の多面鏡だ。予測を超えた美しい色や模様を見ることができるが、古代の日本(倭、ヤマト)と古代朝鮮半島の国々の間にも我々が学んだ歴史以外の思いがけない情景が繰り広げられたことだろう。
ここはひとつ百眼鏡にちなんで、「多くの視点」で古代の韓日の交流の歴史を発掘していきたい。現代の人々がお互いをより理解しあっていくために、読者の皆様と勉強していきたい。
百済系の血筋をプライドに施政
2002年のサッカー日韓ワールドカップ共催に先立ち、当時の天皇陛下(上皇陛下)がこんなお言葉を述べられている。覚えているだろうか?
「私自身としては桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました…」(宮内庁ホームページより)。
と、いうことで今回のテーマは天皇のお言葉にある日本の桓武天皇と百済の武寧王、そして朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人をとりあげたい。
天皇のお言葉にある続日本紀とは、文武天皇697年から桓武天皇791年までの歴史をまとめたもので、奈良時代の基本資料といわれる。桓武天皇の790年の詔勅に「百済王らは朕の外戚なり」とある。
新羅から降臨したというスサノヲ伝説や騎馬民族征服説などなど天皇家と朝鮮半島のかかわりは諸説あるが、確かな関係を記録に残すのは初代神武天皇から126代今上天皇までの間、桓武天皇ただ一人しかいない。桓武天皇(737~806)は第50代天皇にあたり、蝦夷征伐で勝利し、平安京遷都を成し遂げた”大帝”である。
737年、天智天皇の孫にあたる白壁王(のちの光仁天皇)を父とし、その夫人である百済系渡来人出身の高野新笠を母として生まれた。ひるがえると白壁王の父、志貴王の母も百済系氏族と目される紀諸人の娘・橡姫であったから桓武天皇には朝鮮渡来人の血が濃く流れていたわけである。
本題である桓武天皇の母、高野新笠の父は和乙継。815年に成立した大和国内の氏族の出自を記録した”新撰姓氏録”には「和朝臣 百済国都慕王の18世孫武寧王より出ず」とあり、続日本紀の記述を裏付ける。強力な親政を行ったといわれる桓武天皇の施政を見ると、徹底的にその血筋を意識し、それをプライドとしていたようだ。
前述した氏族の出自を記録した新撰姓氏録の分類を見ると、皇別(皇室から分かれた氏族)335氏、神別(神々から分かれた氏族)404氏、諸藩(渡来人)326氏(その他、未定雑姓というのもある)。
計1182氏のうち、ほぼ3分の1を占める渡来氏族。大勢力といえるのに、桓武天皇以前(そして以後も)国政に参加する高級貴族(公卿という)に渡来系氏族がついたことはほぼ皆無であったといわれる。しかし、歴史上たった一時期だけ例外になった時がある。それが桓武天皇に関連する時代だ。
桓武天皇により高級貴族になった渡来人は3人あげられる。従兄の和家麻呂(和氏・百済系)と征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂(東漢氏)も中納言(後に大納言)に。側近として平安京造営の長官であった菅野真道(百済系)を参議に任命している。
遣唐使のような危険な仕事の多くを担ったのが渡来人だったように、縁の下で日本の文化や国政を支えていた渡来系の人たちだが、桓武天皇が単なる依怙贔屓や血縁だけをもってした人事でないことは明らかだろう。新しい時代を作っていくために、いかに渡来系の人の力を頼りにしていたかを物語っている。それは新しい都に、最初は長岡(藤原種次暗殺や怨霊説により10年で廃都)、次に隣接する山背(山城)を中心とした京都盆地を選んだことにも表れている。
当時の京都盆地ははっきり言って僻地であり、紙面の都合で詳しく書けないが、秦氏など渡来人が住みつく以前の3世紀末~4世紀初めに起きた争乱に敗れた鴨氏、葛城氏が京都盆地に逃れ、独自に鴨神を祭り、神威をしめしていたため、大和朝廷にとっては長く祟りの地と見られていたらしい(有名な葵祭りは祟りを鎮める祭りだ)。このため、この地に都を置くのは常識外れの選択であった。 (後編へつづく)
<参考文献>
『日本の古代文化』 林屋辰三郎著 岩波書店
『渡来人とは何者だったか』 武光誠著 河出書房新社
『古代韓半島と倭国』 山本孝文著 中公叢書
『歴史読本』昭和63年12月号 新人物往来社