春先の韓国を訪れるとタラの芽(トウルッ)やセリ(ミナリ)、ナズナ(ネンイ)、白山白菊の葉(チナムル)などの山野草が市場の店先に並び、春の歓びを伝えてくれる。これらはナムルやチゲ、ビビンパブ、サムパブといった料理で楽しむことができる。都心から離れた地方であればあるほど味わいも深く、その土地の食べ方にも出合えることがある。
釜山から東へ車で約1時間のところに、韓国最大の工業都市として知られる蔚山広域市がある。東海岸沿いに造船、鉄鋼、自動車工場やコンビナートが広がる一方、蔚山倭城をはじめ日本との関わりも深い地域として知られている。
市内の中心部から北西方向に車で約40分のところに彦陽と呼ばれる地域があり、ここに古代人が描いたとされる大谷里盤亀台岩刻画があるということを知って訪れた。太和江上流にあたるところで横約10メートル、縦約3メートルの岩刻画は日差しの差し込み状態で見ることができるという。
最初に訪れたのは2001年4月。その当時は、「見たい!」という一心でホテルのコンシェルジュにお願いして、地元に詳しいタクシーの運転手さんを紹介していただき、宿泊先のホテルでお昼用のサンドイッチも作っていただき、朝早く彦陽を目指した。車はどんどんのどかな里山へと入っていった。立ち枯れの畦道に新緑が勢いよく伸び始めた棚田が続き、苗代になる前の棚田は緑一色になっている。蓮華なら花が咲いているはずなのだが花の姿はない。「なんだろう」と思っているうちに車が止まり「ここからは歩いて行きましょう」と言われ、大谷里盤亀台岩刻画まで田圃の畦道のようなところを上った。「川なのに上るの?」と思いながら歩いた。10分ほど上ったところに「大谷里盤亀台岩刻画案内板」があった。
ゆったりとした川はまるで鏡のように穏やかで、案内板のある位置から先へは近づくことは難しかった。川に沿って崖が続き水面から数メートルの高さで抉られていた。刻画は、太陽の光がうまく差し込んだ時にしか見ることができないと聞いていた。双眼鏡を持参したが、画そのものを確認するまでには至らなかった。畦道を歩いて車へ戻る途中のことだった。「イルボンネ?」と棚田で作業をしていたおばさんが声を掛けてきた。どうやら、棚田の緑はセリ(ミナリ)のようだった。「ハウスで作るセリよりも、棚田で育てたセリは緑も濃くて、香りも強いから」と言いながら慣れた手つきで、背丈をそろえ束ねていく。「お昼には少し早いけれどミナリのサムパブ食べていって」と、セリのやわらかい茎の部分をきれいに洗い、持参していた炊飯器ジャーからご飯とサムジャンを用意し、あっという間にセリのサムパブを作ってくれた。「ええっ!」と思っているうちに「早く。ほら、ここで手を洗って」と促され食べてみた。セリの香り。ジャンの香り。ごはんの香り。三つが一緒になった食感は爽やかさと香ばしさと、ごはんのやさしさが融合した極上の春の味であった。
春の日差しも手伝い、芽吹きが始まった里山の美しさとともに菜の花がそよぐ中、古代人が暮らしたであろうこの地でいただいたセリのサムパブは、春のエネルギーいっぱいのものだった。その後、2度ほど「大谷里盤亀台岩刻画」を訪れた。最初に訪れた時のミナリのサムパブが忘れられず、食堂で作ってもらい食べている。
婦人病にも効果があるとされるミナリの手軽な食べ方を知ってからは、時々、自宅でも真似をすることが多くなった。葉物野菜(野草も含めて)におかず、味噌、ごはんをのせてくるりと巻いて食べるサムパブは栄養のバランスも良い。蔚山の棚田で偶然に出会ったおばさんから春のおいしい食べ方を学んだ。
東京で1日のコロナ感染者が100人を超える日が続く。三つの密、手洗い、マスク、不要不急の外出を避けることを守っても不安になってしまうが、買い置きのサムジャンがなくなる前にコロナが収束方向に向かってほしい。
新見寿美江 編集者。著書に『韓国陶磁器めぐり』『韓国食めぐり』(JTB刊)などがある。