国土の環境評価制度の導入、環境保護の事前予防、現世代だけでなく将来世代の環境権を保障するなど、環境問題に対するグローバルスタンダードを先進国と共有し始めた環境保全法の制定(1977年)、保健社会部の中に環境庁を設置し憲法で環境権条項の新設、環境部への昇格および独立(90年)などがすべて、朴正煕大統領がその基礎を作った。十分ではなかったものの、朴正煕は「世界で最初に産業発展と環境保護政策を同時に実施した指導者」だった。大韓民国は西欧の先進産業国と比較し、環境汚染の深化期間が短かったし、産業化の初期から汚染排出が少ない高度な技術と設備を利用できた。後発国としての利点を最大限活用することができたため、深刻な環境汚染の発生を相当部分未然に防ぐことができた。
朴正煕大統領は、重化学工業の建設において公害発生要因のない電子産業を除き、すべての工業団地を海岸に建設するようにした。製鉄や石油化学など大量の公害物質が排出される工場は、同じ地域に一緒に建設せず、非鉄金属や製錬など公害物質を多く排出する企業は、温山公団(74年に指定)のように一つの地域に集めて集中管理するようにした。
だが、環境問題の解決の核心のカギとなったのは、朴正煕時代が成し遂げた経済成長だった。
「環境破壊と環境汚染の核心的要因は、戦争と貧困」と言ったJ・R・マクニール(歴史学者)などが指摘した通り、環境問題の解決において韓国がなぜ模範国となったのかを説明してくれる。
韓国は60年代に、アフリカのガーナ(Ghana)より貧しかった。そして環境的な代価も支払った。だが、今や韓国はアフリカの国々よりも、環境の破壊や生態系の混乱を克服するのに非常に有利だ。これは韓国が富裕な国になり、良い暮らしをしているからだ。
公害防止法の施行令が経済長官会議(71年8月)に上程されたとき、金鶴烈副総理(当時)は、「公害問題が重要なことは、私も知っている。しかし、(中略)まず経済建設が先だ。公害防止設備は今後、工場が稼いだらそのお金でやれば良い」と言ったという。
ところで、朴正煕時代に韓国の環境運動は権威主義的統治への抵抗という政治的な反対の性格(動機)が強かった。今もそうだが、環境運動は政治志向の社会運動として出発したのだ。自然環境を絶対善と主張する「自然に帰れ」は、環境根本主義(環境原理主義)が政党などを動員、結託して国家政策への不信を扇動する場合が多かった。
問題は、この環境根本主義者たちは、森林をはじめ自然環境が極度に荒廃した北韓など、独裁体制に対しては責任追及どころか、その荒廃をもたらした原因に対して一言も言及していないということだ。彼らは平壌側に対して一方的な支援だけを主張してきたというのが事実だ。
歴史的に、公共計画は近代国家と共に登場した。そして国家権力の正当性は、業績と可視的成就が必要だ。朴正煕大統領は、78年10月4日、国土開発研究院を設立するとき、国土の均衡開発を指示した。朴正煕が追求した近代化戦略や諸般政策は、持続可能な成長と発展だった。これらの業績が、朴正煕時代の長期政権を可能にした根源でもあった。
朴正煕大統領は、国土開発研究院の開院を記念して「国土の均衡開発」という揮毫を残した。産業化を先に達成した先進国も、やはり「環境+開発=文化」と考えている。(つづく)