先月は、金鶴泳の日記を手がかりに『あるこーるらんぷ』の執筆過程を速歩で辿つた。今囘より暫くは同日記から推し量れる著者の精神状態に觸れていきたい。その頃の日記を讀んで印象に殘つたのは、何と言つても金鶴泳に付き纏つてゐた憂鬱、そして彼を捉へて放さなかつた「自殺」といふ脅迫觀念である。この憂鬱は一體何處に起因してゐるだらう。1971年1月21日附の日記に氏は、次のやうなことを書いてゐる。
「来月の生活費をどう調達しようかと考えているありさまなのだ。(中略)〔子供たちに〕歯痛を訴えられるたび、悲しいような憂鬱な気持に突き落とされてしまう。こんなに心に応える子供の泣き声をきかされるくらいなら、いっそのこと死んでしまった方が、とさえ思うほどの悲しみに襲われることもある。そうなのだ、いっそのこと死んでしまった方が…」
この箇所が示してゐるやうに、金鶴泳を襲つてゐた憂鬱の一因は生活難にあつた。日記からは、氏がその頃「父のスネをかじっ」たり、借金したり、妻の寶石を質屋に入れたり、大量の本を古本屋に賣つたりすることによつて生活費を調逹しようとしてゐたことが分かる。東大博士課程まで化學を專攻して來た金鶴泳は、「化学関係の会社に就職できたら」と「二ヵ所に履歴書を送ってみる」が、「朝鮮人はだめと思う」と71年8月22日附の日記に綴つてゐる。さらに、翌9月に銀座の樹脂關係の商談で面談に臨んだあと、「ここはおそらく国籍のためだめだろう」と書いてゐる(71年9月1日附の日記)。その數日後に、求職登録すべく南青山の日本マンパワーセンターまで足を運んた金鶴泳は、「係員に、ドル・ショックによる不景気と国籍のハンディキャップのために、すぐにというわけにはいかないだろう」ともいはれた(71年9月14日附の日記)。このやうに、金鶴泳の日記からは、創作活動はもとより、金廣正(金鶴泳の本名)といふ一在日朝鮮人が當時置かれてゐた状況が窺へる。
金鶴泳が『あるこーるらんぷ』を執筆してゐた丁度その頃に、朴鐘碩といふ一人の在日朝鮮人青年が、就職が決まつてゐた日立製作所に採用を取り消されて、同社を起訴してゐた。朴鐘碩は、その不採用の眞因が民族差別にあつたと主張して勝訴し、その判決(74年6月19日)は、日本の司法機關(橫濱地裁)が在日朝鮮人差別問題を嚴しく指摘した點で畫期的なものであつた(水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』岩波新書、2015年)。同判決は、「なかんずく就職差別の問題は、生活手段を剥奪するという点で、在日朝鮮人が日本社会で生活していくうえで、致命的な困難をもたらしている」と指摘した上で、「日本の企業に朝鮮人として就職しようとした在日朝鮮人は、そのほとんどが就職差別の経験を持っているからである」としてゐる。
結局、金鶴泳は、71年10月に墨田區にある、「金属化工技術研究所」といふ從業員數十人程度のメッキ技術改良開發研究所に、フルタイムで就職する。これが、33歳の金鶴泳にとつてのはじめての會社勤めであつた。しかし、「仕事そのものは別に不満はない」ものの、「生活難〔6万円の給料は必要生活費の半分しかカバーしなかつたといふ〕と通勤難のため、ここをやめるのも時間の問題だろう」(71年11月10日附の日記)といふ本人の豫想通り、就職して2カ月で辭職する。
東大工學部學生時代から金鶴泳と親交があつた米山道男氏より、小生が昨年末に頂いた手紙には、金鶴泳が芥川賞を受賞すれば、氏が一躍有名になり、執筆依賴が多く寄せられ金錢的にも樂になつた筈だと書いてあつた。確かに生活難の心配は消えてゐたかも知れない。しかし、芥川賞を受賞しても氏を苦しめてゐた、より根本的な惱みからは解放されてゐなかつたであらう。<この文章は旧仮名遣いです>
アドリアン・カルボネ(Adrien Carbonnet) ルーヴェン大学(KU Leuven)文学部准教授、日本学科長兼韓国学研究所所長。