645年6月のことでした。大臣・入鹿の前で三韓の上表文を読んでいた蘇我倉山田麻呂は、汗が噴き出し声も乱れ、手も震えていました。入鹿が怪しんで「なぜ、震えているのか?」と咎めると、「天皇のおそばに近いので、恐れ多くて汗が流れて…」と言った直後、中大兄皇子が突然飛び出して入鹿に斬りつけ殺害しました。
ここまで、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、蘇我氏4代の大臣の職務や行動などを考証してきましたが、蘇我氏が天皇と同じ行為をしていることに対して、罰せられていないことにたいへん疑問を感じるとともに、実態は、天皇そのものだったことが確認できました。そのため、4人は大臣ではなく倭王だった可能性が非常に高いと思います。
次に、倭王の実像を中国の史書から探ってみたいと思います。『隋書・倭国伝』には、次のように記されています。
『高祖・楊堅の二十年(600年)に、倭王、姓は<アメ>、名は<タリシヒコ>、尊称<オオキミ>が使いを遣わして朝廷を訪問した。皇帝は、官吏の所に出廷を命じ、その国のしきたりや習わしを尋ねた。使者が言うには、<倭王は、天を兄とし、日を弟としていたので、天がまだ明るくならない時に、あぐらに座って政治を聞き、日が出れば、政務を止めて弟に任せます>と言った。それを聞いて高祖は言った。<これは、たいへん意味のないことである>そこで、これを改めるように訓示して命じた』
この600年の隋への遺使について、日本書紀には記載されていませんが、倭王の名は「アメ・タリシヒコ・オオキミ」とあります。「タリシヒコ」は男性の名前なので、女性の推古天皇は倭王ではなかったことになります。その後、倭王は607年に小野妹子を隋に派遣しましたが、皇帝が楊堅から楊広(煬帝)に代わっていました。その時の隋書の記録は、次のようになっています。
『煬帝の大業三年(607年)その王<タリシヒコ>が使いを遣わして朝貢した。使者は言った。<海の西の徳の高い天子が、仏法を重んじて盛んにしていると聞きます。それ故、朝廷に拝謁するために遣わされ、兼ねて、僧・数十人に仏法を学ばせるために参りました>その国の書に言うのに、<日が昇る所の天子が、日が沈む所の天子に書を送ります。お元気でしょうか…>とあった。煬帝はこれに目を通して喜ばなかった。鴻臚卿(外国使節の担当官)に告げて言った。未開の国の書は無礼である。これからは二度と話をしてはならぬ』
翌年の608年、小野妹子は裴世清らを伴って隋から帰国しました。裴世清らは倭国の様子をつぶさに観察したとみえ、隋書に次のように記録されています。
『王の妻は<キミ>と称す。後宮には、6~7百人の女がいる。太子の名は<リカミタフリ>と言う。城郭はない。官位は12等あり、一に〈大徳〉、次に〈小徳〉、次に〈大仁〉、次に〈小仁〉、次に〈大義〉、次に〈小義〉、次に〈大礼〉、次に〈小礼〉、次に〈大智〉、次に〈小智〉、次に〈大信〉、次に〈小信〉である。官人の数は決まっていない。中国の支配体制のように、120人で一つの軍隊を作っている。80戸につき一人の補佐を置いているのは、今の村長のようである。一つの軍隊には、10人の補佐が所属している』