鈴木 惠子
592年に、馬子は「東漢直駒」を使って崇峻天皇を暗殺させましたが、天皇暗殺の首謀者である馬子が罰せられていないのは、腑に落ちません。
また、推古天皇十六年(610年)十月の、『新羅・任那の使者が都の宮廷に来た時、馬子大臣は、政庁の前に立って両国の使いの旨の奏上を聞いた。聞き終わって、客人らに物を賜った』との記述ですが、外国の客人からの奏上を聞き、物を賜るのは、天皇の権限であるのに、その行為を、大臣の馬子が行っていることに疑問を感じます。
そして、614年8月に、馬子大臣が病気になった時、男女一千人を出家させたと記されていますが、大臣の病気に千人も出家させることがあるのでしょうか。違和感を覚えます。
3代目・蝦夷と4代目・入鹿についてですが、蝦夷は、舒明天皇(在位629~641年)と皇極天皇(在位642~645年)に仕え、645年の入鹿殺害事件の翌日に焼死したとされています。
しかし、637年3月2日に日蝕があり、この年、蝦夷が背いて入朝しなかったと記され、その頃に災異が多発していることなどから、政権に何らかの異変があったと考えられます。そのため、蘇我蝦夷は、637年頃に死去していた可能性があると考えています。
また、蝦夷の子・入鹿は、643年10月頃に大臣に就いたように書かれていますが、皇極天皇元年(642年)1月に、『大臣の子、入鹿が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった』と記されていることから、638年頃~641年末頃までには、大臣に就任していたことが推察されます。
642年7月に、『蘇我入鹿の従僕が、白い雀の子を手に入れた。白雀を籠に入れて蘇我大臣に贈った』とあります。蘇我大臣とは入鹿のことと思われることから、白雀は入鹿に贈られたようです。白い雀は「祥瑞」と言われる、めでたいしるしです。祥瑞は天皇に奉るものですが、なぜか大臣の入鹿に贈られていることに釈然としません。
また、皇極天皇元年(642年)11月16日(旧暦の冬至)に、新嘗祭を行っています。日本で最初に行われた新嘗祭は、この時であろうと推察しています。その年には、『蘇我大臣蝦夷は、自家の祖廟を葛城の高倉に建てて、八佾の舞をした』と記されていますが、蝦夷は637年頃に亡くなっていると考えているので、八佾の舞を行ったのは入鹿と思われます。八佾の舞とは、64人の方形の群舞で天子の即位の時に行う中国の行事ですが、入鹿は大臣であるにもかかわらず、天子が即位する際と同じ行事を新嘗祭とともに行った可能性がありそうです。
また、『双墓を生前に造った。一つを大陵といい、蝦夷の墓。一つを小陵といい、入鹿の墓とした』とありますが、墓を「陵(みささぎ)」と称することができるのは、天皇に限られています。
そして、『蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。蝦夷の家を上の宮門と呼び、入鹿の家を谷の宮門といった。子たちを王子といった』という記述ですが、蝦夷・入鹿親子が、宮門・王子などという、王でなければ許されない言葉を使っています。