鈴木 惠子
蘇我氏というと、誰を思い浮かべるでしょうか。645年の乙巳の変で殺害された蘇我入鹿? 入鹿の父・蘇我蝦夷? 仏教を広めた蘇我馬子? 蘇我氏の初代・蘇我稲目? この4人は、稲目―馬子―蝦夷―入鹿と、4代にわたって大臣の位に就いたとされています。そして4代目の入鹿が645年に殺害されて、110年余り続いた家督が断絶しました。蘇我氏について知ろうとすれば日本書紀に頼らざるを得ませんが、詳細に読むと首を傾げる場面に多々遭遇します。まずは、その箇所を取り上げて蘇我氏の実態を考証したいと思います。
初代・稲目は、宣化天皇(在位536~539年)元年に、突然「大臣」という臣下の最高位で登場しましたが、引き続き欽明天皇(在位539~571年)にも仕え、570年に死去したとされています。
550年頃に、欽明天皇が大伴狭手彦を半島に派遣して、百済・任那と共に高句麗を討たせた時のことでした。高句麗から得た戦利品のうち、『七織帳を欽明天皇に奉り、鎧・大刀・銅鐘・五色の旗・二人の美女などを稲目大臣に贈った。大臣は二人の女を妻にして、軽の曲殿に住まわせた』とありますが、戦利品はすべて天皇に奉られるべきと思われるのに、天皇より大臣の稲目に数多く贈られたことに、たいへん違和感があります。
553年7月に、『欽明天皇が樟勾宮に幸行された』との記述がありますが、この「樟勾宮」は、稲目が二人の美女を住まわせた「軽の曲殿」との関連があるように思います。
上宮聖徳法王帝説に、欽明天皇の御世538年に百済国主の明王が初めて仏像・経教・僧などを奉る。これを蘇我稲目大臣に授けたとあり、日本書紀には552年4月に欽明天皇の長子が死去した6カ月後の10月に百済の聖明王が金銅の仏像・経論などを欽明天皇に贈ったとありますが、552年に贈られた仏像は、皇子の死を悼んで贈ったものと思われます。
しかし、その仏像などを稲目大臣に再び譲り渡しています。他国の王から贈られた仏像を臣下に譲り渡すことに疑問を感じるとともに、仏教を敬っていないとされる欽明天皇に聖明王は2度も仏像などを贈っていますが、天皇が仏教を信じていることを知っていたからこそ、仏像などを贈ったのではないでしょうか。
聖明王は、554年に新羅によって殺害されましたが、その翌年に王子の「恵」が倭国に遣わされ、聖明王の死を報告した時のことです。稲目大臣が、『あなたの国では、祖神を祭らないということを聞いていますが、今まさに前科を悔い改めて、神の宮を修理し神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう。あなたは、これを決して忘れてはなりません』と諭したとありますが、稲目大臣の言葉は王の言葉そのもののように感じます。
2代目・馬子は、敏達天皇(在位572~585年)、用明天皇(在位585~587年)、崇峻天皇(在位587~592年)、推古天皇(在位592~628年)と4代の天皇に仕え、626年に死去したとされています。その間、父の稲目から受け継いだ仏教を崇拝し、積極的に修行者の育成と仏教の興隆を図りました。587年に物部守屋を殺害した後、守屋の鎮魂のために法興寺と四天王寺の建立を請願しました。