【寄稿】韓国を選んだ辛格浩と北韓を選んだ全鎭植(1)

問題は、企業の自由があるかどうかだ
日付: 2020年03月11日 00時00分

宋鍾奐


去る1月19日、辛格浩ロッテグループ名誉会長が享年99歳で死去した。「夜明けの文明散歩」というブログに1月21日に公開された「辛格浩対全鎭植」というタイトルのコラムと、日本にいる知人(高永喆・拓殖大学客員教授)の現地調査などを通じて、韓国と北韓を選んだ在日企業家の興亡盛衰を比較して見る。
辛格浩名誉会長のロッテグループと、全鎭植会長のさくらグループの運命を分けたのは、在日企業家が自由な韓国と自由のない北韓のどちらを選択したかということだ。
ガムの販売から始めて2020年1月現在、2代目の辛東彬会長が系列161社ならびに社員20万人を率いて、年商90兆ウォンという世界屈指の大企業に成長したロッテグループと、辛格浩名誉会長については、長々と説明する必要もないだろう。
「さくらグループ」は韓国内では、北韓と合弁会社を運営する朝総連(在日本朝鮮人総連合会)系の代表的な企業として知られている。在日韓国人企業のロッテが1965年の韓日国交正常化を契機に、韓国に進出した時点では、さくらグループが日本でロッテより格段に成長していた。
51年3月に設立され、東京都府中市にあるさくらグループの系列会社は、大型スーパーマーケット流通業、韓国料理店経営、焼肉のたれ中心の食品製造業、ボウリングや競馬などのレジャー産業、テコンドー道場、調理師専門学校、味の研究所など多岐にわたり、日本の地域社会の発展に大きく貢献する会社と認識されていた。特に79年に開発した焼き肉のたれは莫大な売り上げを記録し、その純利益を全て再投資するなどして毎年10%成長という高度成長戦略を推進した。在日の間では、「朝鮮の味」あるいは「民族」を商品化して日本社会に食い込み根を下ろした民族企業というイメージが強い。
ところが、高永喆教授の現地調査によると2019年4月現在、全鎭植会長の孫である全彰碩が社長を務めるさくらグループ(さくらコマース)の社員数は370人で、18年の年間売上げも184億円に過ぎない中堅企業に留まっている。社員2200人余り、年間売上げが1200億円だった1996年に比べてかなり後退した。このようにさくらグループの発展が、ロッテグループとは比較にならないほどになってしまった原因は二つある。一つは日本の20年に及ぶ長期不況であり、もう一つは慶尚南道固城が故郷である全演植・鎭植兄弟が、「朝鮮民主主義人民共和国」を「祖国」として選び、日本で「朝鮮国籍」を固守し、北韓を選んだことである。
北韓は、さくらグループの創業者であり、鎭植の実兄の全演植を朝鮮総連中央本部の副議長、在日商工人連合会会長、平壤の最高人民会議代議員などに任命し、手厚く礼遇した。共同創業者である全鎭植は、86年以降本格化した北韓と在日朝鮮人企業の合弁事業、いわゆる「朝・朝合営」を実質的に導いた人物で、合営事業推進議員会長を務め、87年にその第1号として「朝鮮銀河貿易総会社」と合弁した「モランボン合営会社」を作った。
だが、80年代後半に始まった北韓と朝総連との合弁企業は、90年代に数百万人の北韓住民が飢え死にする「苦難の行軍」を経て、失敗した。
このように合弁企業が、成功し得なかった根本的な理由は、北側の企業経営の原則、いわゆる1961年12月に金日成が提示した「大安の事業体系」にある。
平安南道大安郡にあった電気工場を「現地指導」した金日成が打ち出したその方式とは、工場の党委員会の集団指導の下、工場と企業所を管理・運営する社会主義的工場管理指針であり、最終決定は支配人(社長)ではなく党(秘書)がするというものだった。
金日成が決めたことは変えられない。80年代の合営法でこの原則を緩和するという噂があったが、北韓の首領唯一支配体制のもとで党の干渉は続き、企業の創意性などはないがしろにされた。(つづく)

関連:http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=87164&thread=02r02

宋鍾奐 『未来韓国』の発行人、元駐パキスタン大使、元駐国連・駐米大使館公使、元国家安全企画部海外情報室長、1970年代に南北対話に参加。


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