前回、ワカタケル大王とは「百済から来て百済に帰ったタケル大王」の意味だと述べました。これは、大泊瀬幼武<大いなる百済の、来て行った、腕力の強い者>という名の雄略天皇にも重なります。
また、百済の蓋鹵王=ワカタケル大王と推定する根拠としては、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にある「寺」という言葉もその一つです。百済には、384年に東晋の僧摩羅難阤によって仏教が伝えられ、王都に寺も創られていました。
鉄剣に銘文が記された471年は、蓋鹵王の死の4年前のことでした。鉄剣に「獲加多支鹵大王」と、自らの名を刻ませた意味は、倭国でヤマトタケルとして過ごした記憶を刻み込んでおきたかったのではないか、と考えています。目を閉じたまぶたの裏には、16歳で熊襲を征伐し、30歳で蝦夷征伐に挑んだ苦節の日々の残像が、走馬燈のように駆け巡っていたのかもしれません。その年は、記念すべき61歳の還暦だったのではないでしょうか。
さて、ヤマトタケルが百済の蓋鹵王になったであろうと導き出されましたが、ヤマトタケルが、なぜ「珍」と「済」という二つの名で中国に朝貢したのかについては、次のように考えています。
蓋鹵王の名は慶司です。「慶」は、中国語の発音が「qingチン」なので、近似している「珍zhenチェン」と名のり、「司」は、中国語の発音が「siシィ」なので、近似している「済jiジィ」と名のったと考えられます。または、440~443年に東国の蝦夷も制圧して支配下に置いたので、珍を済という名に替えたとも思われます。「済」の意味は「成し終える」です。蓋鹵王の一生を、次のように推測してみました。
411年 百済王・腆支の子、慶司として百済で生まれる。
420年 腆支が、太子・久尓辛に位を譲る。
父の腆支と共に倭国に来る。(10歳)
腆支が倭王・讃に即位。
426年 熊襲征伐。ヤマトタケルを名のる。(16歳)
429年 この頃、父の腆支が死去か?(19歳)
430年 ヤマトタケル、倭王・?(名前不明)に即位。宋に朝貢。(20歳)
438年 倭王・珍を名のり、宋に朝貢。(28歳)
440年 蝦夷征伐に出発。(30歳)
443年 倭王・済を名のり、宋に朝貢。(33歳)
451年 済、宋に朝貢。(41歳)
455年 百済王・毗有死去。百済王・蓋鹵になる。(45歳)
471年 鉄剣を倭国の臣下に賜り、「獲加多支鹵大王」の名を刻ませる。(61歳・還暦)
475年 蓋鹵、高句麗により殺害される。(65歳)
ここまで、様々な角度から雄略天皇について考察してきましたが、雄略天皇は、ワカタケル大王(百済の蓋鹵王)と、その子・昆支の二人の姿であり、倭王・武ではなかったことが導き出されました。そして、百済と倭国の王統が密接に関連し結びついていることも確認することができましたが、この論考は、あくまでも、私の独自の見解であるということをご理解下さい。
最後に、百済と倭国の王統を示して【雄略天皇】を終わらせていただきます。
(百済) 腆支―久尓辛―毗有―蓋鹵―文周―三斤―東城―武寧
(倭国) 腆支(讃)―慶司(珍・済)―昆支(興)―嶋(武)