この機会を逃してはならない。貰うための器さえあれば十分だった。「器を用意せよ」彼が残した、当時の人々の口に広く膾炙された明言だった。
当時のこのような経済の動きは朴正煕に、彼が何をなすべきか、韓国がどこへ向かうべきかを明確に教えてくれた。朴正煕政府は躊躇わず、第1次経済開発計画を工業製品の輸出増大へと方向を修正した。例えば、当初の計画で1964年の工業製品の輸出計画は830万ドルに過ぎなかったが、1920万ドルに修正された。ところが64年の実際の工業製品の輸出は、何と4230万ドルとなった。その結果、64年には「輸出だけが生きる道」という、いわゆる「輸出第一主義」が、政府の中でも民間でも広く共感されるようになった。
ところで、そのように開発戦略を修正するのは決して容易いことではなかった。金立三が主張した「器を用意せよ」も、言葉のようにそう単純なことではなかった。日本との国交正常化という、越えねばならない大きな難関が立ちはだかっていた。
企業家のない市場経済は考えられない。韓国では6・25戦争中も、企業家たちが国連軍への軍納などを通じて戦争の遂行に積極参与し、戦後の復興過程でも貧弱な製造業をもって輸出を模索した。だが、李承晩大統領は、経済政策においても新生独立国家として国の威信を大切にした。そのため外貨為替問題でも米国の干渉を受けないため57年から59年の間、超緊縮政策を取った。李承晩大統領には、不況よりも国家の品格を固守することがもっと重要だった。この政治第一主義が支配した李承晩政府では、市場論理に忠実な企業家たちが経済政策に参加する余地はほとんどなかった。
「4・19」の後、李承晩政府を継承した張勉政府は、経済第一主義を掲げた。経済開発を国政の最優先目標と決め、市場論理に基づいた経済政策を標榜した。61年3月、張勉総理は執務室で、主要閣僚や主要企業家たちと夜遅くまで非公式会合を持つ。李承晩政府の12年間なかったことだ。経済人たちは「植民地や解放、戦争など、風雪に耐え情報力と経営能力を育ててきた財界が国家経営の主体として浮上し始めた」と感激した。
だが、張勉政権は、経済発展の推進のための土台となる政治・社会的な安定の確保に失敗したため、意欲を実践する機会すら掴めず歴史の舞台から消えた。近代化への情熱に燃え、執念の推進力を持つ軍事革命政府が登場してから、韓半島の嵐のような歴史の中で生き抜いてきた起業家たちが自然の国政のパートナーとなれた。
すでに説明した通り、革命将校団は、当初は理念的な大学教授など経済学者たちに期待したが、彼らは現実の中であまり役に立たなかった。企業家たちは、貿易の重要さを軍人出身の政治家たちに教えた。合板の輸出で60年代中輸出王だった大成木材の全テクボ社長は、保税加工という用語も知らなかった朴正煕に会うたび、輸出の重要さを強調した。
全テクボ社長は、50年代末からの日本の企業家との個人的な縁を利用して、釜山一帯で保税加工を始めた。今のコーロングループを創設した李源萬社長は、植民地のとき日本で企業活動をした経験があった。彼も、資源のない韓国経済が生きる道は貿易しかないと強調した。60年代の韓国の輸出主力商品の一つだったかつらは、彼のアイデアから始まった品目だったのだ。
(つづく)