ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~25 病気より怖い差別といじめ、多くのデマと腐敗の蔓延

日付: 2020年02月27日 00時00分

たんぽぽ

 最近、中国の武漢市で発生した新型コロナウイルスによる肺炎で、世界中が緊急事態になっている。北朝鮮は1月22日に中国との国境を封鎖したが実際、国境沿線では密売などが行われているため、全面封鎖は有り得ないと思う。
1995年以降、人の移動が極度に制限されている北朝鮮では伝染病と言うといつも軍隊に関わる噂で、民間ではあまり大きな騒ぎにはならなかった。
幼い頃には、結核と肝炎と皮膚病の伝染で検査を受けたり、消毒液を散布したり患者を隔離したりしていた覚えがある。人々は病原菌によって病気に罹ってしまうという心配よりも、病名によるいじめと差別、非難などを怖がっていた。
北朝鮮では、結核は「浮気者病」、肝炎は「必ず伝染する病気」、皮膚病は「お化け病」、障害者は「心がねじ曲がっている」などと言われ、患者が家にいなくても近くを通るのを避けて、その家族と関わるのを凄く嫌がって非難していた。父が肝炎を患って肝炎病棟に入っていた時は、私も周りからかなり嫌がらせを受けていた。長期患者は、北朝鮮が素晴らしい国と自賛する理由の一つである、病気に罹る前に予防する”予防医学”政策の邪魔者だ。北朝鮮において、身体障害者は平壌などの重要都市では暮らせない。軽度の障害者は農村か小さい町で暮らし、重度の障害者は何処か誰も知らない場所へ連れて行かれた。
近所で隔離病棟に入って生きて帰った者は少ないので、父が10年以上の肝炎病棟生活から家に帰って来た時はみんなびっくりして、肝炎病棟の先生たちは母のおかげだと言っていた。父の病院生活を思い出すと、いつも仕事から帰ってくると冬も夏も毎日のように病院に通いながら、あらゆる薬を作ったり買ったりしていた当時の母の姿を思い出す。私たち兄弟は大変だったけれど、北朝鮮の大変な生活の中で、並み外れた母の看病に感動する。
2002年に中国広東省でSARS(重症急性呼吸器症候群)が発生した時は、中国との国境付近に旅行しないように指示が出された。検問所で厳しく検閲したが、人々は伝染病より極度な飢えに苛まれており、その移動を阻止できなかった。
国の予防対策講演会では、食器などをお湯で消毒し、塩水でうがいをして家をきれいに掃除するようにとのことだった。講演会に参加した人々は、お湯を沸かす薪も無煙炭も、うがいをする清潔な水も塩もなく、空腹で家の掃除をする力はどこにもないのに馬鹿を言うな、と衛生防疫所の講演者をぐっと睨みながら講演会場を後にした。
そうでなくても沢山のデマで混乱しているのにより深刻な状況になって、生活の困窮から冷静な判断が出来なくなった寒い冬の町は暗澹としていて、大通りで真昼に堂々と強盗が起きていた。
中国から入った怪しい薬で死亡者が出ても、医薬検査システムがないのか正しい死因も分からない状態で恐怖だけが蔓延していた。幹部などの富裕層はロシアからの薬を使用し、韓国からの医療支援物資を使っていた。
人々が飢えと重なった恐怖で喘いでいる中、国際社会からの医療支援物資を中国に売って大儲けをしている幹部たちもいた。
2002年の冬はSARSよりコレラと発疹チフスが流行って、特に軍部で多くの死者が出てひそひそと話していた。部隊から逃走した軍人は大体家に行っても何もないから、大都市に逃げて駅などで物乞いをして倒れているか亡くなる。そうなると、大都市の駅周辺に必ず駐屯している保衛司令部所属警備隊がその軍人たちを管理するのだ。保衛司令部所属警備隊は担当区間の全ての列車に乗って軍人たちを検閲統制し、脱走兵を捕まえるのが主な任務だ。その権威は凄まじく、20代の兵士がお年寄りを殴っても人のものを奪って食べても、「先軍政治(全てにおいて軍事を優先する思想)」としてほとんど問題にならないのだ。
(つづく)


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