工業製品が韓国経済の輸出主力品目として浮上したのだ。当時貿易協会は「韓国輸出の前途に曙光を投げた事件」と感激した。工業製品の輸出の主役は鋼材、合板、綿布だった。
鉄鋼業は1950年代の後半、李承晩政権下で発達した。鉄鋼とはいえ家財、筒、屋根、フェンス材として使われる亜鉛メッキ板金だった。この鉄鋼業が韓国内で設備過剰に陥るや輸出を模索し、ついに一新製鋼が63年ベトナムで1211万ドルを輸出したのだ。
合板は大成木材が西ドイツから先進設備を導入し、国連軍への軍納に成功した実績をもとに60年、米国に15000ドルを輸出、63年に675万ドルの輸出に成功した。綿紡織業も同じだった。50年代の末に設備過剰に陥った綿紡織業が東南アジアに輸出市場を開拓し、63年414万ドルを輸出したのだ。
輸出の主役となったこの工業製品は、50年代、李承晩政府の積極的な財政投融資によって根を下ろし、必死に輸出市場を開拓してきた品目だった。つまり63年から始まった韓国経済の高度成長が、朴正煕政府の功労だけではないことが分かる。李承晩政府が蒔いた種が軍事革命政府の経済開発計画を契機に実を結んだのだ。
歴史に飛躍はない。どの政府のどの政策も突然の業績はないのだ。朴正煕政府の成功は、李承晩政府が築いた基礎の上で可能だった。すべてが連続的に、そして段階的に進む国家建設の歴史だった。
韓国で63年、突然工業製品が輸出の最大品目に浮上したのは、先述した通り、後進国が先進国に労働集約的な工業製品が輸出できる、世界経済の新しい時代がこの時やってきたからだ。専門的な経済学の用語を借りれば、世界市場の中で、韓国経済が持つ潜在的な比較優位がこの時、現実化したのだ。そして、その触媒剤が同時代の日本経済の動向だった。
日本経済は56年、戦後の復旧を完了し、重化学工業化を推進する。その後、日本経済は高度成長に進入、東京オリンピックの前の62年から64年には、世界資本主義の歴史で前例のない年間10%以上の高度成長を謳歌した。それによって、日本経済は労働力が不足し賃金が急騰した。日本の輸出品の構成も、既存の労働集約的な軽工業製品から資本と技術集約的な重化学工業製品が中心となる変化が起きた。
60年から70年、日本の輸出で軽工業製品の割合は41%から21%に減った。この変化は、韓国の軽工業製品が、米国などの国際市場で日本製品を追いかけ追い越す過程でもあった。例えば、60年から70年、韓国の対外輸出において軽工業製品が占める割合は32%から70%に急増した。
一方、日本の軽工業は、新しい生産立地を求めて海外に移動し始めた。すぐ隣の韓国がその最適地だった。韓国の安価で良質の労働力が日本の資本を誘引した。植民地時代に日本に渡って成功した在日韓国人の企業家たちがこの時橋渡しの役割をすることになる。
在日韓国人の企業家たちは、祖国が経済開発を活発に進めるや進んで工場を韓国に移した。国交正常化前の63年、全經聯は、産業調査団を日本に派遣し韓国に移転する製造業を探した。
当時の新聞報道によると、その年の5月、すでに1400万ドルの投資契約が締結され、交渉中の契約も1500万ドルだった。当時、全経連の事務局長だった金立三は、日本から韓国へ製造業が移動する局面をハチの巣分けに喩えた。
(つづく)