海を渡った先人達<32> 先人7人目 雄略天皇⑤

日付: 2020年01月29日 00時00分

 東城王について、前回の日本書紀・雄略天皇二十三年(479年)四月の記述と百済本紀の479年の記述から判断すると文周王の暗殺後、昆支の子・末多王(東城王)が百済王になるべく、倭国の兵士とともに送り込まれたが、すでに三斤王が傀儡として即位していた。その結果、筑紫国の500人の軍隊と解仇らの兵士との間で戦闘になった。大豆城に立て籠もった解仇と燕信は、筑紫国の軍隊によって討伐された。政権を握っていた解仇の死去後、三斤王も排除されて、倭国から行った末多王が直ちに百済王に即位した。それは、三斤王の存命中の479年のことだったこのようになりそうです。三斤王の治世は、478年9月~479年3月の、わずか6カ月間だったようです。

では次に、東城王(牟大・在位479~501年)の22年間の治世は、どのようなものだったのかを見ていくことにします。480年に南斉から「鎮東大将軍・百済王」に封じられて以降、新羅との親密な関係が続きました。新羅が高句麗や靺鞨から攻撃されると、東城王は援軍を送り、百済が高句麗に攻められると、新羅王は援軍を出して百済を救ったのです。また、東城王が新羅王に婚姻を請うた時は、伊飡(官職名)・比智の娘を送っています。この時の新羅王は、炤知王(在位479~500年)です。即位年と在位期間が東城王とほぼ同じであり、また、炤知王の母は、倭国に人質として来ていた未斯欣の娘ということから、互いに親しみを感じていたのかもしれません。

しかし、499年の大旱魃による民衆の逃亡や盗賊の多発、その後の疫病の大流行などで百済国内は乱れました。やがて、臣下からの献言や諫めにも聞く耳を持たなくなった東城王は、楼閣を建てて日夜宴会に明け暮れます。501年11月、王の命令に背いた臣下によって刺された東城王は、1カ月後に亡くなりました。

次に百済王になったのは、武寧王(在位501~523年)でした。百済本紀によると、斯摩、あるいは隆と云い、東城王の第2子とされていますが、日本書紀には次のように記されています。

『雄略天皇五年(461年)四月、百済の加須利君が、弟の軍君を倭国に遣わす時、孕んだ女を与えた。六月、身ごもった女は筑紫の加羅島で出産した。そこで、この子を嶋君という。これが武寧王である』
この記述によると、武寧王は、東城王の子ではなく、蓋鹵王(在位455~475年)の子ということになります。

武寧王が即位後に最初にしたことは、東城王を暗殺して加林城に立て籠もっていた臣下の「ぺク(草かんむりの下に白)加」を討つことでした。投降して来た臣下を、武寧王が自ら斬って白江に投げ捨てたのです。武寧王のこのような行動を見ると、なぜかその臣下に対する強い執着のようなものを感じてしまいます。

日本書紀には『東城王は、無道で民を苦しめていたので、国人はこれを捨てた』と簡単に記されていますが、百済本紀には『東城王から加林城を守るように命じられた臣下が病気と称して断ったが、王は許してくれなかった。恨んだ臣下は、人を使って王を刺した』と、臣下による暗殺であることを記しているのです。
暗殺事件では、実行犯は概ね消される運命にありますが、東城王暗殺の実行犯は、武寧王自らの手によって消されてしまったということになります。


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