海を渡った先人達<31> 先人7人目 雄略天皇③

日付: 2020年01月16日 00時00分

 『…そんなある日、道琳は王に献言した。王は、道琳の献言に従って、宮室や城郭を修理し、楼閣を造り、王墓を作り直し、河を工事した。その結果、倉の中は空っぽになった。人民は困窮し、兵士たちは戦う気力もなくなり、国はついに不安に陥ってしまった。
これを見た道琳は、高句麗に急いで逃げ帰ると、長寿王に百済の有様を告げた。王は大いに喜んで、すぐに攻め込むことにした。百済王は、高句麗が攻めて来ることを聞くと、太子の文周に言った。<私は愚かだった。みだらな人の言うことを信用してしまった。民は国から逃げ出し、兵も弱い。有事になったら、誰が進んで私たちと戦ってくれるだろうか。おまえは、血統が続いている国に避難しなさい>―そこで文周は、木刕満至らと南に行った』

 この説話の最後の部分に『おまえは、血統が続いている国に避難しなさい』とありますが、血統が続いている国とは、倭国のことです。
このように、高句麗に騙されて百済を滅亡同然にしてしまった蓋鹵王は、雄略天皇と関連があるのでしょうか。謎の倭王、珍・済・興・武の解明と合わせて、考察を更に進めたいと思います。

 百済王・腆支が420年に太子の久尓辛に王位を譲り、倭王・讃になったことは、【履中天皇】の箇所ですでに述べました。その後、久尓辛(在位420~427年)が死去すると、毗有(在位427~455年)が王位に就いています。この毗有は、百済本紀によると、『久尓辛の長子、あるいは、腆支の庶子と云うが、どちらなのか、未だにわからない』とあります。
応神天皇二十五年(414年)の、『百済の直支王(腆支)が崩じた。其の子の久尓辛が王となった。王は年が若かったので、木満至が国政を執った』との記述の中に、久尓辛は年が若かったとあります。15歳前後に即位したと仮定し、即位後に毗有が生まれたとしたら、毗有は、1~7歳で王位に就いたことになります。

 毗有王については、『美姿貌、有口辯、人所推重』<姿・容貌が美しく、弁が立ったので、人は力を入れて推挙した>との記述から、7歳くらいの少年をイメージするのは困難です。20~30歳くらいの青年の姿と見るのが妥当ではないでしょうか。
この人物像に当てはまりそうな人が、日本書紀に登場しています。反正天皇です。反正天皇(在位406~410年)の名は、「多遅比端歯別」といい、履中天皇の同母弟で、淡路島で生まれたとされています。

「多遅比端歯別」の意味は、
多遅=〈いたどり〉という花の名前。
比=~よりも。~に比べて。
端=先端。みずみずしい。つやがあって若々しい。
歯=動物の口の中に並ぶ白く固いもの。利口。
別=別の。計画する。たくらむ。

 これらの意味から勘案すると、<多遅の花のように美しく、若く利口な、計略する人>となりそうです。
多遅比端歯別の名には、毗有王の「比」という字があり、<美しく、若く利口>は、毗有王の「姿・容貌が美しく、弁が立つ」に重なります。すると、多遅比端歯別(反正天皇)は、百済の腆支(履中天皇)が倭国で人質として過ごしていた397~405年の間に、腆支の子として淡路島で生まれ、22~29歳の時に百済に行き、427年に百済王に即位した、と推定することができそうです。


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