大韓民国の建国史(178)経済開発戦略家として成長する朴正煕の教養

日付: 2020年01月01日 00時00分

 朴正煕は1962年いろいろな混乱を経験しながら、自力更生の路線を捨て対外開放の工業化輸出立国の政策を選択する。
その渦中、通貨改革は失敗し、民族資本による製油所の建設計画は、メジャー(ガルフ・オイル)を参加させる方向に修正される。朴正煕の軌道修正によって柳源植最高委員と朴喜範ソウル大教授で代表される急進的性向の人物らが退場する。一方、李秉喆のような企業家たちと朴忠勳金正濂のよう実務官僚たちが朴正煕議長を中心とした革命主体たちの実事求是の路線と呼応するようになる。5・16後の約1年間の朴正煕議長の試行錯誤と彷徨は、この革命家が経済を学ぶ過程でもあった。
朴正煕ほど経済と距離の遠い人もいないだろう。彼は軍服務中、理財には関心がなかった。お金を石のように見たのか、できるだけ離れていた。将軍に進級した後もお金に対する潔癖性のため陸英修夫人は生計をやっと立てるほどだった。だが、朴正煕はお金には無関心だったが国政においての経済の重要性は的確に捉えていた。
朴正煕は豊饒のためだけに経済開発を推進したのではなく、共産主義の侵略を防ぐ戦略として、工業化とセマウル運動を推進した側面が強い。数千年間の貧困から脱却するという意識と同時に、共産主義と対決するための方便として経済建設を成さねばならないという強迫感が彼を駆り立てたため、朴正煕の近代化革命はそこまで切迫した様相で推進されたのだ。
陸軍軍情報校長の朴正煕大領が51年、大邱にいたとき金龍泰(後に共和党の院内総務)は、無料で朴正煕家の部屋を一つ使っていた。朴大領は金龍泰と一緒に塩をつまみとして酒を飲みながら、こう鬱憤を吐いたという。
「戦争が早く終わってほしい。同族同士が殺し合う戦争を無謀に続けるのは本当に悲劇だ。戦争を防ぐためには、国が力を持たねばならない。特に、共産主義の侵略を防ぐためには、貧困をなくすしかない。貧困の退治、これがわれわれの当面の課題だ」
朴正煕は、革命の前は経済書籍はほとんど読まず、主に歴史の本を読んだ。彼が人文社会科学の総合学問である歴史に詳しかったのは、経済政策と近代化の戦略を判断し決断する上で大いに力となったはずだ。朴正熙は、政治と経済問題に接するとき、歴史的な観点、つまり韓国の歴史、伝統、文化、民族性、そして現実を大事にする方式を取った。そのような観点は、物事を主体的、現実的に判断してくれるので名分論や理念にとらわれての大きな判断ミスを予防してくれる。
朴正煕の柔軟な精神世界と謙虚かつ私心のない姿勢が、短期間に彼が経済の本質を学ぶ助けとなった。実践力を重視する朴正煕は、理論に偏る学者や慎重な官僚たちよりは、何かを生み出す企業家たちとより息が合った。全経連の常勤副会長を務めた金立三は、61年6月下旬の朴議長と企業家たちの接触をこのように紹介している(韓国経済新聞連載『金立三回顧録』から)。
<朴正煕副議長は柳源植最高委員を通じて金容完京城紡織社長(後の全経連会長)、全テクボ天友社社長、鄭寅旭江原産業社長を最高会議に呼んだ。
「経済をどうすれば発展させられるのかについてご高見を承りたくお目にかかりたいとお招きしました。普段のお考えを気楽にお話してください」
礼儀正しく、丁寧な言い方だった。それで全テクボ社長が先に話をした。(つづく)


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