ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~21 山河草木・人間も変り果てる生き地獄

「北送事業」60周年を迎えて
日付: 2019年12月11日 00時00分

 2000年ごろに入ると、街にも駅の待機室にも市場の隅にもホームレスがあふれて、1995年から街のあちこちで見られた大量死体は少なくなった。都市も山河も人間も、その姿が変わった。山河草木は人々が根こそぎ食べたり、暖房用に伐採したり、中国に密売したりして、はげ山になってしまった。「苦難の行軍」の時には、木の根をどんなふうに料理すればより効率よく食べられるか、ということを放送したり、住居の組織である人民班では木の根の調理法と毒草の知識などのチラシを回したりしていた。木の皮と根、草などを食べて亡くなるケースが多く出たからだった。それは国民を心配したからではなく、水害などいろいろなところで動員させる人口が体調不良等で減って大変になったからだった。機械なしに何事も人海戦術で行う北朝鮮で、人手がなくてその被害の収拾がつかなくなった。
無秩序な伐採はすでに80年代から始まっていた。8月から11月までは小学校から大学、工場なども越冬準備で1人あたりのノルマを課して徴収した。また学校全体が越冬休みを設けて、全校生が1週間、毎日山に登って落ち葉、松ぼっくり、幼い樹木までノルマのために伐採した。山は伐採をせず木が多くても山崩れなどが起こるし、はげ山になっても山崩れが発生する。北朝鮮のあちこちで、人と自然と社会の悪循環の繰り返しが起きた。
国の存亡を心から思い忠言する人はすでに殺して、国の指示に充実に従った真面目な人は1990年から始まった配給未達で亡くなって、残ったのは信義も義理もない、人間の倫理など捨てないと生きていけないことを、身をもって悟った人たちだった。北朝鮮では、「2000年代には狼と狐だけが生存して暮らす時代だ、良い人はすでに全員死んだ」と過酷な状況から生き残った人々は普通にそう言っている。
どのぐらいの絶望からか、戦争経験がある人から先に「戦争勃発」を唱えるようになって、人々が「戦争」という言葉を口の端に掛けて暮らす有り様になった。
元の住民がこのような厳しい状況なのだから、日本から渡って来た人たちの心境はどうだったか想像がつくだろう。日本にいる家族・親戚・友人・同級生あらゆる知り合いに手紙を出し、物乞いをしていた。手紙の返事がないから借金をして、国際郵便局で電話をするものの、相手が出ずその場で泣き崩れる人、日本の兄弟親戚に「親が重病だ」「親が死んだ」と幾度も嘘をついてお金をせびるその姿は、魂が抜けたようで見る側が惨めたらしかった。
日本からの仕送りが潤沢だった人も厳しくなったのを感じたのは90年代からで、「日本の阪神・淡路大震災」という言葉が帰国者の中から頻繁に聞こえた。
今年は、在日コリアンたちが北朝鮮=「地上の楽園」という宣伝を信じ、日朝・国際赤十字社、日朝政府、同じ同胞である在日朝鮮総連の関与下で、多くの日本の政党の支持下で、北朝鮮に渡り初めて60年になる年である。
1959年12月14日月曜日午後3時30分ごろ、みぞれと風が吹き付ける中、盛大な歓迎を受けながら祖国に帰るんだと喜んでいた約10万人の人たちはその後、日本のよく知らない遠縁にまで物乞いの手紙を出さないと生きていけなかった。「帰国事業」を進めた人たちが良心的・道義的に彼らを助けないといけない、と思いすらしないのなら、その人生はゴミと同じだと私は思う。阿鼻叫喚の中では1秒も長いのに、人生と等しい歳月である60年を、60年=約2万1900日=約52万5600時間を、北朝鮮の「極」が付く阿鼻叫喚の中で暮らしている彼らを助ける力もない自分が不甲斐なく、悲しむばかりだ。
建国以来、毎日「偉大なる首領様・偉大なる国民」を唱えている北朝鮮の真の姿は、山河草木も人も変わり果てて、それこそ「人間生き地獄」になった。高層ビルやキラキラネオンサインなどが豊かさや幸せの象徴ではないのだ。(つづく)


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