30代の兪仁浩教授は革命直後、最高会議の企画委員会傘下の重化学工業小委員会の専門委員だった。彼はまず米国の援助資金で運営されている企業の経営実態を調査する仕事をした。
彼は肥料工場、硝子工場、造船所などいろいな企業の実態を見てその杜撰な運営に呆れた。米国の援助の効用に懐疑するようになった兪仁浩に1961年8月、製油所設立の基本案を作って報告するよう指示が下りた。兪仁浩は製油所だけは外資を使わず、純粋な民族資本で作らねばならないという思いで仕事に着手した。
兪仁浩は、石油に対してたくさん勉強した。石油の専門家どころか、石油に対して常識を持った人を見つけるのも難しい時だった。彼は民主党政権が作った製油所の建設計画と関連部署から提出された資料を参考にして、次の要旨の基本計画案を作った。
経営形態は国営、規模は日産35000バレル、資金は政府保有の外貨1600万ドルと韓貨35億ファン、原油導入先(国)はイランあるいはサウジアラビア、原油輸入会社は独立系の石油会社、原油の輸送はギリシャ船籍タンカー(3万トン級)、国内販売はコスコ組織を利用。
この案は民族主義的な匂いが強い。メジャー石油会社を原油供給先から排除したことや、国営で運営することで、価格の決定で営利だけを優先しないようにしたことなどがそれだ。兪仁浩は「そのときは不思議にも私一人に製油所の建設計画案を基礎する権限が与えられていたため、米国が石油を政治的武器として使用した教訓を鑑み、信念を持って案を作れた」という。兪仁浩は61年10月、製油所案を企画委員会の全体会議に付して原案通り可決した。
「民間の製油所の設立を夢見ていた実業人に近い企画委員たちがいました。彼らは国営に反対しました。私は石油の歴史から始めて、オイルは血と同じだと力説し、この血管を誰が押さえるのかによって、経済の自立か隷属かの問題が決定されると力説しました」
兪仁浩の製油所計画案は、最高会議の承認を得て建設予算が62年度の投・融資予算に反映された。建設期間は3年、最初の年に46億ファン(外貨277万ドル含む)を投資するようにした。兪仁浩は成就感を感じながら大学に戻った。
兪仁浩は、62年1月20日付の朝鮮日報1面の3段記事を読んでびっくりした。
「経済企画院の関係者たちと実業人たちが製油所の問題で懇談会を持ち、民間人が外資を導入して建設する方向へ意見がまとまった」という内容だった。
1月29日付の朝鮮日報に兪仁浩教授は反論を投稿した。彼は、石油は「血液のような存在」と表現し、国営論を擁護した。
「(前略)このように重要な精油工業が国家の行政力が及ばない所に位置するかまたは完全に民間企業の自由裁量の下におかれたら、政府の政策はその効果を期待し難い。大資本ではなく、サラリーマンの貯蓄のような少額の資本を動員できるようにするためには、国営で発足し一定期間の後、彼ら(小額の俸給者)に払い下げるべきだ」
62年の初め、朴正煕の経済路線には自力更生と対外開放という異なる方向性が共存していた。民族資本を動員するための通貨改革の秘密推進、民族資本による国営の製油所の建設の推進が代表的な自力更生路線の表現であれば、外資導入の推進と工業化および輸出産業の育成は、開放政策の表現だった。(つづく)