海を渡った先人達<29> 先人6人目 允恭天皇④

日付: 2019年12月04日 16時14分

 藤原不比等が主導して編纂されたと考えられる『日本紀』(改編され現在の『日本書紀』に至る)に、人質だった未斯欣という金氏の王子を天皇として表し、412~453年の41年間もの在位という「雄朝津間稚子宿禰天皇紀」があったとしたら、編纂を主導した藤原不比等は、新羅金氏の子孫である可能性が非常に高いと思います。
当時、伽耶・百済・高句麗を滅亡させた新羅は、日本国内ではたいへん嫌われていたようです。そのため、天皇の名に「宿禰」という伽耶系の姓を付けて、彼らの反発を避けようとしたのかもしれません。
未斯欣は、新羅に418年に帰って15年を過ごした後、433年に死去しました。その後、官職一位の「舒弗邯」を追贈されたということです。

先人7人目 雄略天皇①

 雄略天皇は、泊瀬の朝倉で456年に即位し、479年に崩御したとされています。朝倉の場所は、初瀬川とも呼ばれる大和川が流れる、奈良県桜井市の大和朝倉駅南側の台地あたりと思われます。
北東方向に初瀬山や長谷寺があるこの一帯は、すでに【履中天皇】のところで述べましたが、百済の王子・阿直岐=腆支が居住し、百済系の人々が勢力を張っていた場所です。そのため、このあたりは、百済・泊瀬・初瀬・長谷などと称されています。ちなみに、百済の韓国語の発音はペクチェですが、現在クダラと言っているのは、百済に振られた仮名が発端と思われます。
雄略天皇の名は「大泊瀬幼武」と言います。漢字を直訳すると、<大いなる百済の、未熟で腕力の強い者>という意味ですが、「幼」を、韓国語の「ワカ(来て行く)」という意味に捉えると、<大いなる百済の、来て行った、腕力の強い者>となります。このことから、雄略天皇は、百済国の人と推定されます。その百済では、雄略天皇の即位前年に、蓋鹵王(在位455~475)が即位していますが、二人の即位年や在位年がほぼ一致していることから、何らかの関連がありそうです。また、雄略天皇は、允恭天皇の第5子とされていますが、允恭天皇は、新羅金氏の王子・未斯欣であると考証済みなので、百済系の雄略天皇が未斯欣の子である可能性は、非常に低いと考えられます。雄略天皇の人柄について書かれていると思われる記述が、安康天皇(在位453~456年)の即位年にあります。
『大泊瀬皇子が、反正天皇の娘たちを我がものにしようとした時、娘たちは、<あの方は、日頃から乱暴で恐いお方です。ご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され、夕にお目にかかった者でも、翌朝には殺されます。私たちは容色が美しくなく、また、気も利かぬ者です。振る舞いや言葉が王の心に適わなかったならば、どうして可愛がって頂けましょうか。このようなわけですから、仰せ事を賜ることはできないのです>と言って、身を隠してしまった』
この話は、雄略天皇が即位する前の出来事ですが、反正天皇(在位406~410年)の娘たちとあることから、425~430年頃と推測されます。また、大泊瀬皇子は、この時すでに「王」と呼ばれていたことがわかります。


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