未斯欣の帰国について「三国史記・雑志列伝・朴提上」は、さらに続きます。
『翌日提上は、未斯欣をできるだけ遠くまで逃れさせるために遅く起きた。みなが、<将軍は、なぜこんなに遅く起きるのか>と聞いたので、<昨日の舟遊びで疲れたので、朝早く起きられなかったのです>と答えた。
その後、倭国の将師たちは、未斯欣が逃げたことを知り大騒ぎになった。提上を捕まえると未斯欣を追った。しかし、その日は霧が立ち込めて暗く、見通しが悪かったので、追うことができなかった。
倭兵たちは、提上を倭王のもとに送ると、倭王はすぐに木島に配流し、薪の火で提上の体を焼き、斬刑に処した。
これを聞いた新羅王は深く嘆き悲しみ、提上を〈大阿飡〉に追贈した。そして、彼の家族に厚い賞を賜り、未斯欣に提上の次女を娶らせることによって、提上の恩功に報いたのである』
以上、たいへんドラマチックな話が展開しました。
未斯欣が本国に無事に戻ったのは、418年の秋のことでした。訥祇王・卜好・未斯欣の兄弟3人は、互いに抱き合って歓喜にむせんだということです。
倭国は、誉田(神武)天皇の時に締結されたと推察する「百済・新羅・倭の三国和平協定」で、百済や新羅より優位に立ったようです。後を継いだ菟道稚郎子(応神)天皇の時には、百済の太子・腆支や、新羅の王子・未斯欣を人質とする「人質外交」を初めて採り入れ、更に優位に立つことになったのです。
高句麗の広開土王の石碑に刻まれている『百済・新羅は属民で、倭に朝貢していた。倭は、391年に海を渡って来て、百済を破り、新羅を臣民とした』と読まれている銘文は、概ね事実を伝えていると思われます。
そして、この銘文は、応神天皇三年(392年)の、『百済の辰斯王が、日本の天皇に対して礼を失することをした。そこで、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰らを遣わして、その礼に背くことを責めさせた。それで、百済国は、辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは、阿花を王に立てて帰って来た』という記述に対応しています。
さて、允恭天皇(未斯欣)は、金氏であるにもかかわらず、なぜ昔氏の「宿禰」とされているのでしょうか。そして、人質時代の百済の腆支を天皇として表したのは百済系の桓武天皇と推定しましたが、人質時代の金氏の未斯欣を天皇として表したのは、誰で、いつのことだったのか、という疑問もあります。
720年に完成した「日本紀」は現在、藤原不比等が主導して編纂されたと考えられていますが、その後、改編されていることが推察され、現在の日本書紀に至っています。不比等が編纂させた日本紀には、去来穂別(履中)天皇紀と大鷦鷯(仁徳)天皇紀があったのか、それとも、なかったのか、という疑問が今でもありますが、当時の日本紀を読むことが永遠に叶わないと思うと、ほんとうに残念でなりません。