ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~20 「アダルト本」の次は「麻薬」…壊れていく北朝鮮

「北送事業」60周年を迎えて
日付: 2019年11月27日 00時00分

たんぽぽ


1998年ごろから北朝鮮では、戦争経験がある人々の中から戦争を望む声が多く聞こえるようになってきた。
北朝鮮建国当時に生まれた人より上の年代は、日本植民地時代と1950年からの3年間続いた朝鮮戦争を経験している。現在は、その当時よりももっと大変で辛いと言って「今すぐ誰かが戦争を起こしてくれないかしら」と、絶望の底に沈む人たちが続出した。
思想教育も恐怖政治も何の役にも立たず、ピリピリしている国民の神経を、新しい方向に向かわせないといけなくなった。その政策として、「アダルト本」が登場した。アダルトビデオは電気がないので、そもそも見ることができない。だからそれを本にしたのだ。
北朝鮮は建国以来「アダルト=敵=反逆者」と規定しており、少し前までアダルトビデオを取り締まって人命まで奪った事件が多かったのに、アダルト本は闇市場を通して全国に配布した。
初めて接する「アダルト本」に、国の思惑通り人々は夢中になった。浮気、不倫などが正当化される風潮にまでなった。
ずっと「世界一幸せで立派な国だ」と叫んでいた北朝鮮当局が「苦難の行軍」と命名した1995年からの飢餓の時期に、それを乗り越える解決策として出したのが「アダルト本」で、次が「麻薬政策」だった。
組織的に動員されて、山間地域に畑を作ってアヘン(ケシ)を植えた。この政策の名前は「ドラジ畑建設」で、ドラジとはキキョウの根で韓半島民族の食材の一つだ。アヘン農場建設と同時に、材料がなくて稼働していない大きな化学工場で覚醒剤を製造して国内外に販売した。
国家保衛部が管理し、運搬していた。当然のことながら、国のあちこちに麻薬中毒者が現れた。頭が良くて物事に対する思考が深い青年たちが、若くして麻薬中毒者となって死んでいった。北朝鮮には麻薬中毒者を隔離して治療する施設などがない。生産過程でより利益を得るために、毒性のある物質など不純物をわざと混ぜることが普通に行われていたため、麻薬による死亡率も高かったと思う。
1998年末から、韓国と経済協力をして人民の生活を豊かにするとの宣伝講演会が行われた。しかし人々は信じなかったし実際、何の変化もなかった。この頃、北朝鮮当局も統制を緩めていて、市場が増えてきていた。飢餓の中で生き残った人たちは、安定した生活をしようと熱心に商売をした。
それが2000年6月15日、韓国の当時の大統領・金大中氏が平壌で金正日と会談してから、韓国からコメなどの支援物資が入ってくるようになり、公権力機関による配給が始まった。再び公権力の統制が強くなって来た。もちろん前のように服従する人は少なくなってはいたが。
2002年には急に10年期間の国債証券を発行し、ひとつの家庭で1万ウォンずつ買うように指示が降りた。住まいの組織責任者が毎日、何回も訪ねて来た。平壌では5千ウォンずつ買うようにした。当時1万ウォンだと区の幹部レベルの人の5カ月分ぐらいの給料と同じで、コメを30キロぐらい買える金額だった。そんな大金を持っている家庭は少ないし、お金があったとしても、10年後に国から絶対に貰えないことを知っているので、国債証券を買う人はいなかった。
また、ある時、当局は住まいの近くの農村の畑を個人に分配した。分配した土地で収穫した物の30%を国に納めるように指示が出たのだ。皆必死に手をかけて育てた。家から近いといっても、歩いて2時間以上かかる畑に週に何回も通ったりしていた。
私も仕事場から15平方メートルの畑を夏にもらった。荒廃した畑を毎日手入れして冬キムチ用の大根を植えた。大きくなっていく大根を見て疲れも忘れて育てた。収穫の時季が来て日曜日にリヤカーを借りて喜び勇んで行ったら、ひとつも残らず軍隊が持っていったあとだった。国の詐欺にまた騙されたと、自分の愚かさに自己嫌悪に陥った。
「苦難の行軍」を乗り越えるために出した政策の中には、金正日の指導下で作られた映画の主題歌も、韓半島伝統歌謡も歌わないようにと厳しく統制した項目もあった。
北朝鮮は到底、人が住むことができない国になってしまった。その中で私を含め誰しもが変わっていったのだった。
(つづく)


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