韓国には「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」という諺がある。これは、ある人物の歴史的評価を意味する場合にも使われる。歴史的人物の場合、個人の人生よりも歴史的、時代的流れの中での役割や活動を評価する傾向にある。こうした影響で、人物に対する人間的な面については忘れられることが多い。
元心昌もまた、「独立運動家」という歴史的人物として知られている。では、彼がどのような人生を歩んだか、その時々でどのような苦悩があったのか―。人間・元心昌はどのような人物だったのだろうか。
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京畿道平澤市城東小学校に置かれた元心昌の銅像 |
元心昌は、幼い頃から男気が強かった。六三亭義挙の同志である李康勲は、元心昌について「他人のために自分を犠牲にしても厭わないという奉仕の精神に富み、『独特な心の持ち主』」と語っている。日本帝国に国権を奪われていた当時、元心昌がいかに情熱的な人生を送ったかを十二分に推し量ることのできる言葉だ。
元心昌の夫人・チヤ女史も元心昌について次のように評している。
「(性格は)極めて善良で慈しみ深かった。しかし、祖国と民族を害するものに対しての憎悪と敵対心は秋霜烈日といえるほどだった。公敵に対する態度は一貫していた。百尺竿頭も厭わないという民族的な道義心と智勇を兼ね備えた典型的な革命闘士だった」
元心昌の人生は「革命」そのものだった。情熱的な人生だった。これまでの権威的で抑圧的な通念に立ち向かうアナーキストだった。日本と中国を股にかけて義烈闘争を展開したという点だけをとっても、元心昌は闘士に間違いない。全てに対して己を犠牲にすることも躊躇しなかった。
こうした情熱に加え、他人を信じて行動を共にするという積極的な包容力を携えていた。こうした要素こそ元心昌が革命意識を高める原動力となり、抑圧から自由を勝ち取るという意志につながった。元心昌はその一方で、他人との協力をベースに新たな社会を作ろうとした。生涯を通してそれを最優先の課題とし、実践に努めた。
元心昌は、同じ民族が理念で対立することを批判した。それでいて尚、新たな希望を志した。この点こそ、元心昌という人物の最も人間的な面ではないだろうか。解放前、元心昌らアナーキストと社会主義者間における命懸けの闘争を繰り広げたことで懐疑心が生じた。そこで生まれた煩悩こそ、元心昌が活動の場を日本から中国に移す理由となった。
解放後は民団の創設者(初代事務総長)となり、民団中央団長として在日同胞社会の統率に努めた。しかし、6・25韓国戦争という同族同士の争いの悲劇を目の当たりにして以来、元心昌は人生の舵を「統一運動」へと切った。元心昌が結成した「統協」運動は、南北統一促進のために和解と包容を強調した。統協は左派、右派、中道派など様々な理念的スペクトラムの人物らが一堂に会し、祖国統一を追求した最初の統一運動体だった。
元心昌は、独立運動家や民団団長を歴任したという肩書だけでも個人として十分、平穏に暮らせる状況だった。しかし元心昌は統一運動を選択した。どんなに孤独で、疲弊していても統一運動の道を黙々と歩んだ。統協運動により、本人が創設して中央団長を務めた民団から除名処分を受けるという屈辱を味わった。
元心昌の豊かな人間性は、平等の実践に勤しむ姿にも見出すことができる。「人間は誰でもどこでも平等な存在であるべきだ」という言葉だ。
解放直後(戦後)、日本は深刻な食糧不足に陥っており、コメの配給制が実施されていた。当時、在日韓国人は外国人として、コメの配給量の増量を求めることができた。しかし、元心昌は外国人の特典を行使することは一切拒否した。当時の朝日新聞のコラムには、元心昌が民族を超えた平等意識の持ち主であることを証明する発言が掲載された。
「隣人である日本人が飢餓に喘いでいるのに、どうして我々だけが腹を満たすことができようか」(新朝鮮建設同盟副委員長・元心昌)
元心昌をよく知る人々は皆、彼を「素晴らしい人格」を備えていると評した。元心昌も決して豊かな暮らしぶりではなかった。それにも関わらず、仲間に会えば酒を振る舞ったりもしていた。地位の上下を問わず、誰に対しても人格的に接した。
韓国社会は今日、他者に対する不信感が蔓延している。自分たちの陣営論理に執着した結果、逆に社会的葛藤を深刻化させる状態にまで陥っている。
元心昌の包容力と忍耐力、リーダーシップを求めてやまない今日この頃だ。<完>
(成周鉉・崇實大教授)