なぜ百済の腆支は、これほどまでに尊重されているのでしょうか。その理由を探っていくと、桓武天皇(在位782~806)に行き着きました。
桓武天皇の時に『続日本紀』の編修が命じられ、7年の歳月をかけて797年に完成したことが『日本後紀』に記されています。また桓武天皇は、国史について高い関心を持っていたとあることから、藤原不比等が編纂させた『古事記』『日本紀』などの改編も、桓武天皇の指示で行われた可能性が高いと考えています。
『日本後紀』によると、桓武天皇の生母「高野新笠」は、百済の武寧王の子「淳陀太子」の子孫とされています。淳陀太子は、『継体天皇七年(513年)八月に百済の太子淳陀が薨去した』と記されているのみで詳細は不明ですが、武寧王が505年に倭国に遣わした「斯我君」と関連がありそうです。
その淳陀太子は、腆支の子孫です。つまり、桓武天皇の母方の祖先は、腆支なのですから、桓武天皇が改編させたと推測される『古事記』や『日本紀』で、祖先の腆支を履中天皇と仁徳天皇という二人の天皇として表したのは、感情的には理解できる面もあるのかな、とは思います。
余談になりますが、百済に<クダラ>、新羅に<シラギ>と仮名が振られたのも、桓武天皇の時だったと考えています。
百済は、663年に、唐と新羅の連合軍によって完全に滅亡しました。当時、数千人規模で日本に亡命して来た彼らの子孫たちは、新羅に対して深い恨みを抱いていたようです。また、356年に金氏によって国を奪われた伽耶諸国の人々も、新羅を恨んでいたことは想像できます。
これは、いくつかある説のうちの一つですが、新羅に「新羅の奴ら」という意味の<シンラギ>↓<シラギ>と仮名を振り、百済に「貴い国」という意味の<クイナラ>↓<クナラ>↓<クダラ>と仮名を振って鬱憤を晴らしたのかもしれません。
腆支がいつ頃死去したのか、確かな時期は不明です。しかし、438年に、倭王「珍」が宋に朝貢していることから、438年以前には亡くなっていると確認できます。また腆支は、仁徳天皇陵とされてきた「大仙陵古墳」に葬られていると考えていますが、腆支の円墳が日本最大の前方後円墳に改造された時期も、桓武天皇の時と思われます。
その時、仁徳天皇陵の東方にある大泉緑地の場所にあったと思われる「菟道稚郎子」の前方後円墳も、破壊されたようです。そのように考える理由は、仁徳天皇陵と誉田御廟山古墳を直線で結んだ線上に大泉緑地が位置し、航空写真からは、かつて壮大な前方後円墳が築かれていたように見えるからです。
ところで、現在伝えられている『日本書紀』において、歴代天皇の漢風諡号に「神」が付けられているのは、第10代の崇神天皇以外は、神功―神武―応神の伽耶系王朝の3人の天皇だけです。そして、その中の一人である神武天皇は、日本最初の天皇に据えられています。