鈴木 惠子
百済本紀によると、腆支は420年に崩御したとされ、王位は、太子の「久尓辛」が継いでいます。この記述を信じるなら、420年に死去している腆支による421年の朝貢は、有り得ないことになります。しかし、腆支であろうと考証済みの履中天皇(去来穂別)の名の意味〈来て去っていった、たくらんでいる穂〉を思い出してみると、自身は死去したことにして倭国を手に入れようと企み、再び倭国にやって来て倭王「讃」として宋に朝貢した、という可能性を排除することができません。
応神天皇紀に、次のような記述があります。
『太子・菟道稚郎子を立てて後継とし、大鵲鷯尊を、太子の補佐として国事を見させた』
『太子・菟道稚郎子は、応神天皇の死後、位を大鵲鷯尊に譲ろうとして、まだ即位していなかった。二人が位を譲り合っているうちに、菟道稚郎子は、ついに自殺された』
このように、菟道稚郎子は自殺したことになっていますが、実際は大鵲鷯尊によって420年頃に自殺に追い込まれたか、殺害されたと見ています。その後、大鵲鷯尊は倭王に即位して倭国の実権を握ります。すると大鵲鷯尊は、421年に宋に朝貢した倭王・讃に重なるのです。
では、その大鵲鷯尊は、420年頃に倭国に再びやって来たと思われる百済の腆支なのでしょうか。実は、大鵲鷯尊と腆支には、多くの共通点があるのです。日本書紀の記述から拾ってみました。
(1)大鵲鷯尊の「鵲鷯」とは、かささぎのこと。スズメによく似ている野鳥で朝鮮半島に多く生息していることから、大鵲鷯尊は朝鮮半島出身と思われる。腆支も、朝鮮半島の百済国の人である。
(2)大鵲鷯尊は、菟道稚郎子の補佐をして国事を見ていた。腆支も、菟道稚郎子の学問の師として導いていた。
(3)大鵲鷯尊=仁徳天皇紀に、遠江国の大井川に上流から流れ着いたという「二股の木」を船に造らせ、難波津まで持ってきたとある。腆支=履中天皇紀にも、両股船を磐余の市磯池に浮かべて、妃と遊んだとある。
(4)大鵲鷯尊=仁徳天皇は、百舌鳥耳原の百舌鳥野陵に葬られた。腆支=履中天皇も、百舌鳥耳原陵に葬られた。
このように、百済の腆支と大鵲鷯尊には同一人物と考えられるほど多くの共通点があり、その上、倭王「讃」の可能性もあることにたいへん驚きます。実際、腆支は421年以降に倭国の王になったと思われるので、仁徳天皇として日本書紀に表記されて当然なのですが、人質として滞在していた時期も履中天皇として登場しているのです。
仁徳天皇は、日本書紀によると313年~399年までの86年間在位したことになっています。その治世は、『民の苦しみを見て課税を3年間停止した。人民が富むまで、雨漏りする宮殿の修理もせず我慢した。天皇は早く起きて遅く寝て、税を軽くし、徳を敷き、恵みを施して人民の困窮を救った。それで政令はよく行われ、天下は平らかになり、20余年無事であった』などとあり、賛辞があふれ聖帝と崇められています。まさに、仁徳(人の道として心が立派で、慈愛に満ちた)天皇なのです。