元心昌、白貞基、李康勲らが日本帝国による植民地期に、中国・上海で行った六三亭義挙。有吉明・駐中日本公使の暗殺を試みて未遂に終わった事件だ。
この義挙を主導した元心昌は、日本帝国に無期懲役を言い渡されて収監された。夢にまで見た解放を迎えた場所は刑務所(鹿児島刑務所)だった。殆どの朝鮮人たちは自由を取り戻したが、元心昌は政治犯として囚われの身となっていた。出所したのは、解放から約2カ月が過ぎた10月10日だった。
海外で迎えた解放。独立運動家であれば誰もが祖国への帰国を望んだはずだ。元心昌もやはり、解放された祖国で新たな国家建設に注力したいと考えていた。しかし、帰国して目の当たりにした祖国は、熾烈な分裂状態にあった。国内情勢は信託統治の賛否を巡り大混乱に陥っていたのだ。元心昌は、信託統治反対運動に参加した。祖国が日本帝国に35年間支配され、再び他国からの統治を甘受することは、独立運動家として看過できないことだった。
祖国が熾烈な分裂状態にあることを確認した元心昌は、再び日本に渡った。日本は元心昌に無期懲役刑を下し、刑務所に収監した、いわば敵国だ。それにも関わらず、本人と民族に甚大な苦痛を負わせた日本こそ、元心昌が人生の後半を過ごす地となったのだ。そして、その数年後に発生した6・25韓国戦争時に民族統一運動を始める現場となったのも日本だった。
解放、帰国、そして再度の渡日を選択した元心昌は、在日韓人社会の安定と取りまとめに尽力した。「新朝鮮建設同盟」と「大韓民国民団」の設立では主導的な役割を担った。
元心昌は、新朝鮮建設同盟の副委員長、大韓民国民団の初代事務総長と団長を歴任した。しかし、日本の同胞社会もまた二つに分裂した状態だった。民団と朝鮮人連盟に代表される同胞社会の葛藤状態は、6・25韓国戦争を起点としてさらに激化していった。在日韓人社会の安定と権益擁護のためには、民族の分裂を食い止める必要があった。本国と日本で起きた一連の分裂は、元心昌が統一運動家として生きる道を選ぶ転機となった。
「南北に国土と民族が分裂されてからは、何もかもが悲惨だった」
彼は分断の痛みをこう語った。統一運動に乗り出した元心昌は南北統一促進協議会(統協)を結成し、中央代表委員と事務局長として最も重要な役割を担った。しかし、統協の活動は長くは続かなかった。
統協は韓国政府と民団の牽制、北韓の金日成支持を選択した朝連から執拗な妨害を受け、出帆から1年で手足を奪われた。政府と北韓政権、そして日本で双方を代理とする各団体の工作により、統協メンバーたちは離脱していった。統協創設メンバーの多くは、新たに結成した「社会民主同盟」に流れた。しかし、元心昌だけは最後まで統協を守るべく孤軍奮闘していた。
統協の統一運動は、元心昌の統一運動の基本スピリットと思想的原則があったことで維持することができた。元心昌統一運動の理論は二つの柱を主としている。
一つは基本となるスピリット「主体性の確立」だ。もう一つは「思想的原則」だ。
前者は、民族構成員自らが統一に対する自覚と覚悟を要する。後者は、民族自決、平和、民主主義、国際協調に集約される。
こうしたスピリットと原則に基づき、元心昌は第三の地である日本、在日同胞社会で統一運動を展開した。自分の全てを統一運動に捧げた人物こそが元心昌だった。
元心昌が主導して結成した統協は、南北韓の統一を追求する人々の結社だ。国内はもちろん、海外で初めて民間が自発的に結成した統一運動体だった。これは、歴史的に見ても評価に値する事実だ。日帝の統治時代、祖国独立に献身した志士が帰国せず、過去の敵国である日本での残留を選択したという事実。また、南北の対立が最も熾烈に展開されていた日本の地で「統一運動」にまい進したという事実。ともすれば、元心昌の生涯はそれらを担う宿命だったのかもしれない。
(成周鉉・崇實大教授)