海を渡った先人達<22> 先人5人目 履中天皇③

日付: 2019年10月09日 00時00分

 人質の腆支一行が倭国で住んでいた所は、桜井市池ノ内地区の「稚桜神社」の場所、及びその周辺だった可能性が非常に高いと思われます。同時に、履中天皇は百済の腆支であろうと推定できるのではないでしょうか。
百済に帰国し王に即位した腆支は、翌年の406年に東晋に朝貢しましたが、安帝から「鎮東将軍百済王」に冊封されたのは、10年も後の416年のことでした。百済王の認定が遅れた理由などについては、百済本紀には何も記されていません。
ところで、413年に、名前が不明の倭国王が中国の東晋に朝貢していますが、誰だったのでしょうか。
すでに【神功皇后】のところで述べましたが、神功皇后は、347年に倭王に即位後、359年に誉田別皇子に譲位し、倭王に即位した誉田別皇子が390年に崩御すると、太子の菟道稚郎子が倭王に即位した、と推察しました。
菟道稚郎子の政権は、日本書紀の応神天皇紀にほぼ対応していると思われます。その応神天皇紀に、420年の百済王・腆支の崩御が記されているので、応神王朝は、420年までは存続していたことが確認できます。すると、413年に中国に朝貢した倭王は菟道稚郎子と思われますが、疑問なのはこの時の貢物です。
宋代初期(977~983)に成立した「太平御覧(巻981・香部Ⅰ<麝>3)」の<義煕(東晋の年号・405~418年)起居注>に、『倭国は、貂皮と人参を献上した。要望により、細い笙(楽器)と麝香を賜った』とあります。
献上した二品とも、中国東北部から朝鮮半島にかけての特産品です。倭国の特産品である真珠や錦ではなく、半島の特産品を見た東晋側は、いぶかったのではないでしょうか。献上品から考えると、倭王の可能性は低いと思います。
この時、高句麗も同時に朝貢していました。413年は、広開土王が亡くなり、長寿王が即位した年です。高句麗はその頃、百済を圧迫し、新羅の政権に関与していました。次に倭国にも触手を伸ばそうと企んでいたとしたら、倭国がすでに高句麗に従属しているかのように見せかけるため、偽の使者を立てて倭国の使者と騙り、高句麗と並んで献上品を差し出させたのかもしれません。
百済王・腆支の可能性もありそうです。腆支は、406年に東晋に朝貢した時には、百済王として認めてもらえなかったようです。そのため、413年に倭王を騙って朝貢したとも考えられます。
では421年に、中国の宋に司馬曹達を遣わして朝貢した倭王は、菟道稚郎子だったのでしょうか。
この時の倭王の名は「讃」です。「倭の五王・讃・珍・済・興・武」と呼ばれている最初の倭王でした。「讃」の意味は、〈補佐する〉〈導く〉などですが、この意味からイメージされるのは、太子・菟道稚郎子の学問の師となったという、百済の腆支です。


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