大韓民国の建国史(170)基幹産業の建設で革命政府を引っ張った経済人たち

日付: 2019年10月09日 00時00分

 革命政府によって拘束されてから釈放された企業家13人は、「韓国経済人協会」を作って経済人たちの政府への窓口として活動し、政策に大きな影響を及ぼし始めた。この協会の会長になった李秉喆三星物産社長は「思い迷っている軍事政権の経済政策の方向と戦略に、私たちが突破口を開いて実践して見せよう」と決心したという(元全経連常勤副会長『金立三回顧録』)
企業家たちは、追われている気分だった。革命政府は、彼らに不正蓄財に対する罰金を課した。 1961年12月31日まで罰金を納めないと、再び拘束すると言った。李秉喆は朴正煕議長に訴えて「国家が必要とする工場を建設し、その株式を罰金として代納できるようにしてほしい」と建議した。
「そう配慮して下されば、私たちは時間的余裕を持てるようになり、政府も企業人たちが果たして国に害を及ぼしたのか、貢献したのかを評価できるでしょう」
朴正煕は難色を示したが、李秉喆は「必要なら、国民を説得するのも政治であると思います。経済人たちを活用してこそ経済建設も可能ではありませんか」と朴正煕を説得した。(『湖巖自傳』から)
朴正煕は結局、李秉喆の建議を受け入れた。李秉喆は韓国日報への寄稿文でも「不正蓄財者の処罰で最も被害を受けた人は、処罰された企業人ではなく、国と国民大衆だ。58年と59年のGNP(国民総生産)の成長率が平均6・1%だったのが、(企業人たちが処罰された)60年と61年は2・3%と2・8%に落ちた。遡及法を制定して経済・社会の発展を阻害するなど、二度とあってはならない」と主張した。
企業人たちは、基幹産業の建設は引き受けるが、その財源の外資を導入する道も自ら切り開くことにした。彼らが基幹産業の建設対象として定めたのは、セメント、肥料、電気、製鉄、化学繊維、石油精製産業だった。洋灰工場は、雙龍の前身である金星紡織が引き受けることにした。肥料工場は、三星と三湖と朝鮮絹織物が、電気は大韓製粉が、製鉄は大韓洋灰・極東海運・大韓産業・東洋セメントが、化繊工場の建設は和信と朝鮮絹織物と韓国ガラスが単独または合弁で推進することにした。
李秉喆と韓国の造船と海運業を起こした主役の一人である極東海運の南宮錬社長は、ほぼ毎日、朴正煕議長を訪ねて経済人協会が作成した基幹産業建設計画案を説明し、建設に必要な条件づくりについて対話した。朴正煕は「製鉄工場一つ建設するだけで1億3000万ドルがかかるではありませんか。政府が保有中のドルを全部投入しても足りない」と言い、難色を示した。李秉喆はそのたびに外資の導入で財源を調達できると朴議長を説得した。他に代案がなかった朴議長は、企業人たちの説得に耳を傾けるしかなかった。
李秉喆と南宮錬は、朴議長の許可を得て61年9月4日、米サンフランシスコで開催された国際産業会議に出席し、外資誘致の可能性を探った。
9月13日、韓国経済人協会は5カ年計画に必要な民間の外資導入推進計画書を最高会議に提出した。9月18日、朴議長と経済人協会の会長団が「当面の経済問題についての意見交換会議」を開き、外資の調達方案を議論した。こういう会議を経て、協会が作ったのが外資導入促進策だった。その骨子は、次の通りだ。
(1)個別企業の交渉では外資の導入が難しいため、米国、日本、欧州など三地域に外資誘致団を派遣する(当時、海外旅行は厳しい許可事項だった)。
(つづく)


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