鈴木 惠子
405年に父の百済王の崩御に伴って帰国したときの様子です(百済本紀)。
『太子・腆支の倭国からの帰国を待つあいだ、王の弟の訓解が政務を執っていたが、末の弟の碟禮が訓解を殺し、自ら王に立ってしまった。一方、倭国で父王の崩御を知った腆支は号泣し、帰国を願ったので、倭国王は兵士百人で腆支を守り、本国に送り届けた。国境に至ると、漢城の人、解忠が来て、〈大王が世を棄てた時、王の弟の碟禮が、兄を殺して自ら王に即位しているので、太子は、軽々しく入国しないようにお願いします〉と告げた。腆支は、やむなく倭人たちと留まり、島で待つことになった。やがて国人によって碟禮が殺されると、迎えられて王に即位した』
このように、百済王「腆支」(在位405―420)は、倭国に人質としてやって来て、父の「阿華王」の崩御に伴って405年に百済に帰国して王になった人物です。まさに「来て去っていった」という名を持ち、405年に崩御したという履中天皇にぴったりと重なっています。
履中天皇は、「磐余の稚桜宮」で即位したとされていますが、その場所はどこなのでしょうか。
奈良県桜井市の池ノ内地区に、小さな山があり、頂上に稚桜神社が鎮座しています。私は以前、この場所を訪れています。山は木々に覆われ視界は良くありませんでしたが、神社の北側に回り、木々の間から前方を覗くと、秋の奈良盆地が広がっていました。
この小山の北側には、かつて大きな磐余池が広がっていた痕跡があります。履中天皇紀に、『磐余の池を造った。磐余の市磯池に両股船を浮かべて、妃とそれぞれの船に分乗して遊んだ』という記述が見られます。そして、この小山は、かつて、城郭が築かれていたと思われるような景観でもあることから、この小山を、稚桜宮があった場所に比定したいと思います。
稚桜神社の南方には、農業大学校があります。その敷地内に「池ノ内古墳群」が形成されています。古墳はすべて円墳で、築造年代は4世紀末~5世紀初頭とされています。円墳は百済の墓制であり、築造年代も、腆支が倭国にいた時期に重なっています。
池ノ内地区の東側に、孝徳天皇の政権で左大臣に就いていた「阿部倉梯麻呂」が創建した阿部寺跡や、阿部文殊院などがありますが、この一帯は、阿部氏の本拠地と見られ、阿部氏の「阿」は、百済の王子「阿直岐腆支」の「阿」という姓に由来していると考えられます。
◆訂正◆
9月26日付「神功皇后(8)」の19行目『この3地点を直線で結ぶと、<60度・75度・45度>の三角形になります。次に、この三角形を2つの直角三角形に分割すると、<30度・60度・90度>の直角三角形と、<45度・45度・90度>の直角二等辺三角形が得られました。』を『この3地点を直線で結ぶと、<60度・80度・40度>の三角形になります。次に、この三角形を2つの直角三角形に分割すると、<30度・60度・90度>と<40度・50度・90度>の直角三角形が得られました。』に訂正いたします。