研究者が見た義士・元心昌<第4回>

六三亭義挙 謎のスパイ
日付: 2019年10月02日 00時00分

 いわゆる「六三亭義挙」は1933年3月17日、中国上海に駐在していた日本公使・有吉明に対する暗殺未遂事件だ。現場にいた元心昌、白貞基、李康勲ら3人が逮捕された。その後3人は日本へと圧送され、長崎で裁判を受けた。判決で元心昌と白貞基は無期懲役、李康勲は懲役15年を言い渡された。服役中、白貞基は獄死し、元心昌と李康勲は1945年の解放後に釈放された。元心昌は解放から2カ月後の同年10月10日、鹿児島刑務所から出所した。
「六三亭義挙」は、尹奉吉義挙、李奉昌義挙と共に日本統治時代の韓国人らによる「3大海外抗日義挙」と呼ばれる。六三亭義挙は事前に情報が洩れ、未遂に終わった。しかし、失敗の決定的要因は計画の段階で”スパイ”が潜入していたからだ。では、果たしてスパイとは一体誰だったのだろうか。
元心昌が参加した六三亭義挙裁判の様子(1933年11月16日付 長崎日日新聞)
 スパイに対する記録を具体的に確認することは難しい。ただし、当時義挙に関わった人物が残した回顧録で判明したこともある。その人物について回顧録には、鄭華岩と李康勲が「沖」、柳基石は韓国語発音で〈オッキ〉と読む「玉埼」と記されていた。一部研究者たちは、日本人アナーキスト矢田部勇司が密告したと主張している。しかし、真相は謎のままだ。なぜなら、六三亭義挙に関する資料は、判決文と回顧録しか残っていないからだ。これらの資料で、スパイは特定されていなかった。
しかし最近、日本の外務省が所蔵する資料「在外帝國公使館及公館員被害關係雜件」が発見され、六三亭義挙失敗のキーマンとなる「スパイ」の存在が明かされた。以下は、六三亭義挙の経緯が記された文書を要約したものだ。
「33年2月頃、上海の韓人たちが日本の要人を暗殺しようとしているという情報を探知した。その中心人物は元心昌、柳子明、白貞基、李康勲、矢田部勇司(アナーキストの同僚)などだった。当時元心昌は日米の関係悪化を目論み、上海に駐在する米国総領事の暗殺を望んでいた。元心昌は、李會榮の長男・李圭昌と同居していた。
しかし日本領事館はこのころ、沖を密偵(スパイ)として活用していた。沖は日本人ジャーナリストで、日本から上海に渡り活動していた。元心昌と李圭昌、沖の3人が同席する場で、元心昌は自身のこれまでの活動と今後の計画を伝えた。その時沖は有吉明のスケジュールを知らせた。沖は同日、元心昌から聞いた情報を日本領事館に報告した。元心昌もまた、有吉明が上海虹口の某料亭で送別会を開くという情報を沖から仕入れ、有吉明の暗殺に向けて意見を募った。元心昌たちはいずれも自ら実行を志願した。そのため、8枚の紙切れの中に有吉明の「有」の字を書いた紙を混ぜ、その紙を引いた人が実行することにした。その結果、白貞基と李康勲が選ばれた。そして元心昌も参加する形となった。この過程で元心昌は、日本人の矢田部勇司に有吉明の写真を用意し、車のナンバーを調べるよう要請した。矢田部勇司は3月9日、有吉明が日本の料亭・六三亭で宴会を開くとの情報を伝えた。そして矢田部勇司も六三亭義挙に参加することになった。しかし、沖による情報はいずれも虚偽のものだった。沖の偽情報、日本人の緻密な事前工作によって六三亭義挙が進められたのだ。
六三亭義挙失敗の決定的要因はスパイの存在だった。これまで六三亭義挙のスパイの正体を巡っては複数の意見があった。六三亭義挙の資料が不足している中で、回顧録を基にスパイを推定せざるを得なかった。ただし、日本外務省の資料は、スパイが日本人・沖であることを示している。
未遂だとしても、六三亭義挙を軽んじる必要はない。日本の裏工作と日本人スパイによって結果的には成功に至らなかった。しかし、当時退潮していた韓国人の独立意志を対内外に向けて明確に覚醒させた事件だった。その点だけでも、六三亭義挙は、韓国人の民族運動として十分評価に値するといえるだろう。
(成周鉉・崇實大教授)


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