鈴木 惠子
神功皇太后は、367年4月の時点で亡くなっていることが推察できることから、289年に生まれたと仮定すると、最長78歳までは生きたことになります。陵墓は現在、奈良市山稜町の五社神古墳とされていますが、これについては疑問に思っています。
真の陵墓と考えているのは、そこから南西方向に約5・5キロメートル行った所にある「富雄丸山古墳」です。2017年に発表された奈良市の調査結果によると、4世紀後半に築造された直径約110メートル、高さ14・3メートルの三段築成の円墳で、日本で最大の円墳とのことです。
出土品の中に「巴形銅器」がありました。巴形銅器は、吉野ケ里遺跡などからも出土した日本独特の遺物とされていますが近年、朝鮮半島南東部の金官伽耶(南加羅)地方で集中して出土しています。
この富雄丸山古墳から真西の方向に「比売許曾神社」があります。また、西南方向には、武内宿禰が葬られていると推察している「誉田御廟山古墳」があります。この3地点を直線で結ぶと、<60度・80度・40度>の三角形になります。次に、この三角形を2つの直角三角形に分割すると、<30度・60度・90度>と<40度・50度・90度>の直角三角形が得られました。このことから、3地点が強い関連で結ばれていることが認められます。
富雄丸山古墳の築造年が、神功皇太后の崩御年に一致していること、伽耶の墓制の「円墳」であることなども考慮すると、この古墳に葬られた人物は、神功皇太后と比定できそうです。
履中天皇の名は「去来穂別」と言い、磐余の稚桜宮で即位したとされています。この年は、太歳庚子とあるので、西暦400年と推定されます。また、5年間の在位の後、405年に崩御したとあります。
去来穂別という名の意味は<来て去っていった、別の穂>、または<来て去っていった、たくらんでいる穂>になります。「別」には<計画する、たくらむ>、「穂」には<尻尾のような形、筆の毛の部分>という意味もあります。そして履中天皇の「履中」の意味は<中央に踏み入る>です。
西暦400年前後に、「来て去っていった人」は実在しています。
その人物は、百済の「阿華(阿化)王」(在位392―405)の太子「腆支」です。百済本紀によると、腆支は394年に太子に立てられ、397年に倭国と好友を結んだ時に、人質として倭国に差し出されています。その時のことを日本書紀には、『百済王は、阿直岐を遣わして良馬二匹を奉った。阿直岐は、また、よく経書を読んだ。それで、太子・菟道稚郎子の学問の師とされた』と記されており、腆支は阿直岐という名で呼ばれていたことがわかります。
その後、405年に、父の百済王の崩御に伴って帰国しましたが、その時のことについて、百済本紀に記載があります。