【新連載】研究者が見た義士・元心昌

<第1部>元心昌はなぜ閑却されたか(1)
日付: 2019年09月11日 00時00分

 日本統治時代に活動していた多くの独立運動家の中でも、非常に特異な経歴を持つ人物こそが元心昌だ。元心昌は、韓国内では3・1独立運動に加わり、日本と中国ではアナーキストとして民族運動の最前線で活躍した。国家報勲処功勲戦者史料館によると、元心昌の功績は次のように記録されている。

元心昌は韓・日・中の三国で独立運動を広げた
 「1925年から無政府主義の社会実現運動として独立運動に加わり、31年6月に黒色公布団に加盟。33年3月17日、上海で同志2人と共に日本の有吉明公使爆殺を試み、実行直前に捕らえられた。33年11月24日、日本の長崎地方裁判所2審で無期懲役を言い渡された。日本の刑務所で服役中だった45年、勅令により懲役20年に減刑。12年6カ月の刑期を終えて出所した事実が確認された」
元心昌は77年、これらの功績で独立章に追叙され、2013年12月、国家報勲処は「今月の独立運動家」として名を連ねた。しかし、元心昌の功績事項には、中国でアナーキストとして活動した事実だけが記されている。元心昌は”忘れられた独立運動家”との認識に過ぎず、正当な評価がなされていないのが実情だ。

 しかし最近、彼の故郷である平澤市(生まれた当時は振威郡)では記念事業会が組織され、元心昌の独立運動に対する宣揚事業が展開されている。ただし、この動きも活発化しているとは言えない。
最近、元心昌と同時期に活動したアナーキスト・朴烈の映画が製作され、彼らの存在が身近に感じられつつある。
朴烈は1923年9月、関東大震災で7000人以上の罪のない在日韓人が虐殺されたことで、日本の皇室の要人らの爆殺を計画した。しかし実行前に逮捕され、26年に大逆罪で死刑が言い渡された。その後、無期懲役に減刑され、獄中で解放を迎えた。
出所後は元心昌と共に日本で大韓民国民団(当時の在日本朝鮮居留民団)を結成し、初代団長を務めるという革新的な役割を果たした。
元心昌は、日本と中国でアナーキストとして民族運動に参加した。中国・天津の日本領事館爆弾投入事件と、上海日本領事館における有吉明暗殺事件、別名「六三亭事件」の中心的人物だ。特に六三亭事件で元心昌と白貞基は無期懲役(白貞基は獄中死)、李康勲は15年の懲役刑を下された。それにも関わらず、白貞基と李康勲に比べると元心昌の存在はあまりにも軽視されている。白貞基は、故郷の井邑に記念館が建てられた。また、遺骨を発掘し、白凡(金九)、李奉昌、尹奉吉と共に孝昌公園に埋葬された。李康勲は日本で元心昌と活動した後に帰国し、光復会長などを歴任していた。六三亭事件の中心的人物のうち、元心昌だけが故郷の平澤ですら記憶にとどめている人が少ない。

 だとすれば、元心昌はなぜ閑却されたのだろうか。理由の一つは、解放後、韓国内で活動せずに日本で生涯を終えた点にあると思われる。元心昌は日本の長崎諫早刑務所で光復を迎えた。海外で活動していた独立運動家の多くは韓国に帰国して活動していた。前述した朴烈と李康勲も、解放後は元心昌と共に日本で活動したが、帰国の道を選んだ。しかし元心昌は日本に留まり、在日韓人社会の統合と統一運動を展開した。特に、独立運動は韓国内の政治状況的に障壁が多く、評価されることはなかった。これらの理由で、元心昌は国内で忘れられた独立運動家で統一運動家だった。

 理由の二つ目は、成功に至らなかった義烈闘争が挙げられる。歴史の多くは成功した部分だけが記録される。元心昌が主導した「天津日本領事館爆弾投入事件」と「有吉明駐日公使暗殺事件」は”未完の義挙”だ。しかし、これによって元心昌は約15年もの間収監され、苦難を味わった。
最後の理由は、研究不足だ。元心昌の代表的な独立運動といえる「六三亭事件」さえも、研究者らがそこに目を向けることはなかった。
日本統治時代には独立運動家として、解放後は統一運動家として人生を点綴した元心昌に対し、より忠実で客観的な検証が行われるべきだ。

■執筆者=成周鉉・崇實大教授 1960年生まれ。韓国・崇實大学HK+研究教授、(社)韓国歴史文化院代表を務める。韓国近代史の研究者として、独立記念館にて独立運動史研究員を歴任。


閉じる