「私は通貨改革を経験せず、せいぜい学校で学んだ程度です。自信もないし、このようなことは米国側にも通知してから推進すべきではありませんか」
朴議長は「米国側に知らせたら、米国の反対で水泡に帰する可能性が高い」と言った。千炳圭長官は「それでも、韓国銀行総裁、経済企画院長、最高会議の財政経済分科委員長は事前に知るべきです」と言った。朴正煕は「そうしたら秘密が守れない」と反対した。朴議長は、自分の経済顧問である朴喜範ソウル商大教授の案が完成したら、改めて話しましょうとしながら「千長官も研究をして欲しい」と言った。千炳圭が後に調べてみると通貨改革の発想者は柳原植だった。柳原植は経済開発5カ年計画が発表された7月下旬、朴議長に通貨改革の発想を言ったそうだ。
内資動員の必要性と同時に、新政府が発足したから、新しい貨幣が望ましいという話に朴議長は「やって見よう」と簡単に承諾してしまい、それで通貨改革の車輪は回り始めた。朴議長は商工委員だった柳原植を財経委員にし、この通貨改革準備作業を極秘裏に進めるようにした。そして宋堯讃内閣首班にもこの計画が伝えられた。この時点で、通話改革計画を知っていた人は、朴議長、宋堯讃首班、千長官、柳原植委員、そして朴喜範教授など5人だった。金鍾泌情報部長も知らなかった。
問題は、新しい貨幣をどこで印刷するか、だった。国内で印刷すれば、秘密が漏れる可能性が高く、日本で印刷すれば便利だが往来する人が多く、これも安心できない。米国で刷ると朴議長が心配する通り米国側に知られる。それでヨーロッパで印刷する所を調べた。千炳圭長官は、ウィンでの第16回IMF総会に出席した後、西ドイツへ行った。印刷機を購入するふりをしながら、新しい紙幣を印刷する工場を探したが、通貨改革予定である1962年3月まで紙幣印刷を終える所がなかった。
千長官が帰国後10月中旬、最高会議議長室で通話改革に関する会議が開かれた。秘密を知っている5人、つまり朴議長、宋堯讃内閣首班、柳原植最高委員、千炳圭長官、朴喜範ソウル商大教授が参加した。朴喜範教授は、研究してきた通貨改革案を報告した。千炳圭長官が聞いて見たら、到底実行不可能な杜撰な案と判断されたという。例えば、貨幣の交換を銀行ではなく、洞の事務所でする構想など、現実性がなかった。
朴喜範教授が退いた後、4人は「朴教授の案ではだめだ」と結論を下し、朴教授には「通貨改革はしないことにした」と伝え、彼を通貨改革チームから外すことにした。通貨改革計画は原点に戻り、千財務長官が実務準備をすることになった。
このとき、千炳圭の頭に浮かんだ人物が金正濂(後に大統領秘書室長)だった。金正濂は韓国銀行で53年2月15日断行された通貨改革に実務者として参加した。その後、財務部に派遣されて理財局長として勤務中、4・19が起きた。民主党政権のとき韓国銀行に戻って、韓国銀行ニューヨーク事務所長として発令された。煩雑な手続きや子供の転校問題を解決してやっとニューヨークに赴任して3カ月後、5・16が起きた。革命の後の人事粛正の嵐に見舞われた金正濂は、ニューヨーク事務所長職を解任されて帰国命令を受けた。自由党や民主党政権のとき要職を経たというのが彼に不利に作用したのだ。韓国銀行本店に復帰した彼は、「人事部所属の参事」の肩書きで何職務も与えられず日を過ごしていた。
(つづく)