寧越火力2号機、釜山火力3・4号機、嶺南火力1・2号機、仁川火電、月城原発3号機、東海火力1・2・3号機、双竜セメント、高麗セメント、東洋セメント、韓一セメント、一新製鋼、ユニオンセロファン、フィアット自動車、石炭公社の採炭設備の近代化、中央線の電化、浦項製鉄増設など。米国の援助が減少しつつある時だったため、朴正煕政権はアイゼンバーグが斡旋する借款の金利が非常に高いのを知りながらも受けざるを得なかった。
アイゼンバーグが西ドイツ借款を最初に斡旋したのは1961年の秋だった。彼は丁來赫商工部長官が西ドイツの官僚や企業人たちに会えるよう手配して、丁長官と一緒に借款導入交渉に61年11月13日、ドイツへ出発した。彼は丁來赫長官がクルップ、シーメンス、ハノーバー造船所など西ドイツの有数の企業を視察するために案内した。エルハルトゥ経済担当副首相には会えなかったが、借款交渉を成功させた。西ドイツ政府の長期借款と民間投資を合わせて3750万ドル相当のマルク貨を、62年に韓国政府に提供することにした。これは革命政府の初の公共借款の導入だった。
米国は、韓国が西ドイツから借款を導入するのを見て警戒心を持つようになった。韓国としては、米国に対して「貴国だけでない。私たちも、お金を借りることができる」と誇示したのだ。朴正煕議長は西ドイツ大使を招待して酒宴を共にしながら、米国の妨害のため西ドイツとより緊密な経済関係を結べなかったことに対して惜しい気持ちを伝えたという。
経済開発計画の成否を左右する財源調達に頭を抱えていた朴正煕議長は61年の夏、とんでもない決心をすることになる。61年9月初め、千炳圭財務長官はオーストリアのウィーンで開催されるIMF(国際通貨基金)の年次総会に出席する数日前、最高会議の財経分科委員の柳原植准将から食事をしようという連絡を受けた。三仙橋付近の柳原植の家を訪ね談笑中、柳准将がこのような話を言い出した。
「経済開発には外資の導入も難しいが、内資がもっと問題です。国内の華僑が隠しているお金が1000億ウォンと言われます。そのお金を引き出せたら一息できるのに」
千炳圭は当時の通貨量が2830億ウォンなのに、いくら華僑が現金をたくさん持っていてもそれほどかと半信半疑だった。柳原植はどんどん通貨改革の方へ話題を進めた。経済開発へ投資する内資を動員し、お金の所在を把握して富の偏在を是正する目的として通貨改革の必要性を言うが、千炳圭には途方もない発想だったため賛成も反対もしなかった。千長官は「これは柳委員の考えですか、それとも朴議長の考えですか」と訊いた。
「朴議長も知っているから、明日にも一度会ってみなさい」
翌日、千炳圭財務長官は、朴正煕議長を訪ねて昨日の柳原植最高委員と交わした話を報告した後、こう言ったという(回顧録『天馬、草原で遊ぶ』から)。
「通貨改革は軍事革命よりも恐るべき波及効果を全国民に与えます。簡単に考えてはなりません」
「すでに既成事実で、朴喜範教授に貨幣改革に関して研究するよう、すでに指示しました。来年の3月末に断行する計画です」
千炳圭は韓国銀行の創立以来、東京支店長、大阪支店長、香港支店長など海外ばかり勤務して、50年9月の緊急通貨措置と53年2月15日の通貨改革を経験しなかった。(つづく)