海を渡った先人達<16> 先人4人目 神功皇后④

日付: 2019年08月01日 00時00分

鈴木 惠子

 日本での鉄器の生産がいつ頃から始まったかは確定されていませんが、出雲の安来地域から良質な砂鉄が産出されることから、3世紀半ば頃までには、天叢雲剣のような鉄剣が作られていた可能性はあります。
出雲地方には、銅器・鉄器などの高い製造技術を持った民族集団がいたと考えられます。その民族は、インドのドラビダ系の人々だったのかもしれません。彼らの一部は季節風に乗って海を渡り、ある一派は日本列島の出雲地方にたどり着き、またある一派は韓半島南部の慶州地方にたどり着いたようです。
慶州地方にたどり着いた一派は、やがて「伽耶連盟」を成立させましたが、盟主には中国から派遣された役人が就任したようです。その後も中国の各政権に翻弄され続け、238年の公孫氏滅亡の頃には、北方の騎馬民族が南下して、慶州や洛東江流域の伽耶諸国になだれ込んで来ました。今の慶尚道各地の遺構から蒙古鉢形冑や馬具など、騎馬民族の文物がたくさん出土していることから推測できます。238年以降の伽耶諸国は、インド的風習は残っているものの、ほとんど騎馬民族の国と言っても過言ではないようです。
次に、昔氏と思われる神功皇后の実像と仲哀天皇の政権の実態を『新羅本紀』と『日本書紀』の記述から探ってみることにします。なお、新羅国の成立は、356年に即位した王「金奈勿」の時なので、それ以前は、斯盧国と表記させていただきます。
仲哀天皇は、太歳壬申に即位したとされています。その年は、西暦252年、312年、372年のいずれかに当たりますが、前後の状況から判断して312年に比定したいと思います。すると神功皇后は、翌年の313年に皇后に立てられたことになります。このことから、次のようになりそうです。
310年<新羅本紀>昔訖解王即位。
312年<日本書紀>仲哀天皇即位。
312年<新羅本紀>倭国王が使者を遣わし婚姻を求めたので、阿飡の急利の娘を送った。
313年<日本書紀>仲哀天皇は、気長足姫を皇后に立てた。
344年<新羅本紀>倭国が婚姻を請うた。しかし、すでに嫁がせているとして断った。
345年<新羅本紀>倭王が絶交書を送ってきた。
346年<新羅本紀>倭兵が突然風島に来た。進攻して金城を囲み攻撃してきた。
346年<日本書紀>仲哀天皇九年(320年)仲哀天皇急死。この年、斯盧の役があった。
以上の2国間の様子から、気長足姫(神功皇后)は、倭国王が312年に斯盧国に婚姻を求めた際に送られた、官職六位の阿飡という位に就いていた急利の娘であろうと推定できそうです。 
そして仲哀天皇の崩御の年は、新羅本紀の記述から鑑みて、346年に比定したいと思います。なお、その年は日本書紀では320年にあたることから、26年の差異が認められます。仲哀天皇は、熊襲征伐のために九州に行き、7年後に筑紫の香椎宮で亡くなったとされています、征伐についての詳細は仲哀天皇紀にはありませんが、景行天皇十二~十九年に、その7年間の様子が記されているようです。


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