ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~14 同級生の母親の怖くて不可解な態度

「北送事業」60周年を迎えて
日付: 2019年08月01日 00時00分

たんぽぽ


保育院から家に帰るときは、家においしいものがあったり母が出迎えてくれたりするわけではないけれど、嬉しくていつの間にか早足になる。しかしその日は体が、足が、思うように動いてはくれなかった。怖い声で浴びせられた言葉が、帰り道もずっと耳から離れなかった。アパートの3階にある我が家に帰ったらドアが開いていて、煙がモクモクと出ていた。
また台所の練炭の火が死んでしまい(北朝鮮では台所の練炭火を生きてる、死んでるという)、兄と姉が火をおこしていたのだ。北朝鮮では練炭で暖を取ったり食事を作ったりするため、台所では一年中(真夏以外)練炭の火をつけっぱなしにする。しかし、その火をずっと維持するのはすごく大変だ。雨や雪の日は気圧が低いので火がよく死ぬし、家に人がいて空気調整をすれば良いが、そうでないと晴れの日でも火が死んだりする。私が住んでいたアパートは、1階に3世帯が住む5階建てだった。頻繁に煙が出る家は大体同じで、昼に誰も人がいないのだ。練炭も貴重だが、火をおこす時に必要な薪もたくさんはないし、薪が乾いていないと火をおこすのがいっそう大変になる。兄と姉は煙で涙を流しながら台所で忙しく働いていて、私を見つけるとすぐ「これをやれ、あれをやれ」と用事を言いつけてきた。
煙で私の顔がよく見えないし、普段でも忙しい時間帯なのに、火までおこさないといけなかったから、いつもと明らかに違う私の様子にも気づいていなかった。ゆっくり静かに兄と姉の指示どおりに床掃除をした。夕食のときも2人は自分たちも疲れているので、私に注意など払っていなくて3人で静かにご飯を食べた。その日は早く横になった。
次の日、起きたらいつもと同じ大騒ぎだ。母は職場に電車で行くので妹をおんぶして急いで出た。一番上の姉はおばあちゃんの家から学校に通っていて、家にいなかった。全国人民学校(小学校)学生学力コンテストの勉強に専念するためだった。家では家事手伝いで勉強がほとんどできないからだ。兄が先に学校に行き、2番目の姉と一緒に家を出た。姉の幼稚園は家から近くて姉が保育院まで連れて行こうとするのを、一人で気をつけて行くからと言って断った。保育院の前では、昨日の怖いママが自分の子どもと正門を通って行くところだった。私は入るのをためらったが、担任の先生と目が合ったので仕方なく入った。
私がいつもと違うと、初めて気づいたのは担任の先生だった。「どこか痛いの?」と優しく聞いてくれたが、私は口を閉じて頭だけ左右に振った。先生は私の手を握って教室に行き、黒板の左下の隅に書いた楽譜を説明してから朝会に出た。北朝鮮で、私は大学まで担任の先生だけはとても良い人たちに恵まれた。それが学校生活の大きな助けになった。気分が良くなって音楽ホールに入る前までは普段通りに戻った。
音楽ホールに入って自分の場所に行って練習を始めた。練習が終わって最後にいつも決まっている子たちが残った。その日は私を含めて4人がいたが、3人は私と離れて遊んだ。私は棒で鍵盤をたたく木製のモックムという楽器を一人で練習していた。音楽班では、大体二つのことを習わせた。異なる楽器を二つ、楽器と踊り、楽器と歌という具合に。それには訳があったのだが、それを知るのはもっと後になってからだった。
私はガヤグムとモックムだった。しばらくこのような日が続き、1週間ぐらいたって彼女らが私に遊ぼうと話しかけてきた。嬉しかった。
そんなある日、また怖いことが起きた。例の怖いママがたまに来るのは、同じアパートの親が交代で子どもたちの迎えをしていたからだった。怖いママは自分の子に「あの子と遊んじゃダメといったでしょ」と怒鳴って、その子は泣きながら連れられて行った。廊下で子どもの泣き声が聞こえるから当直室の先生が出てきた。「どうしたの、ケンカしたの」という担任の先生の声が聞こえた。怖いママが先生に「あの子はなぜ音楽班にいるんですか」と大声で言っていた。少し後に、私も帰るために廊下を歩いていたら担任の先生と会った。先生は目を大きくして「何があったの。今日初めてではないでしょう」と聞いてきた。先生の質問には答えず、私は大声で泣いた。    (つづく)


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