大韓民国の建国史(163)経済建設に必要な外資導入で活躍した外国人

日付: 2019年08月01日 00時00分

 経済開発5カ年計画が国防費を最小限に抑える原則を定めたのも注目すべき点だ。事実上の軍備凍結決定を軍人革命家グループが決めたのは、海外でも前例がない。朴正煕は1960年代に経済第一主義を貫き、金日成は軍事第一主義に邁進した。朴正煕は70年代に入って、60年代に構築した自立経済を基盤として自主国防政策を推進する。金日成は60年代の過重な軍事費負担で経済が駄目になってから、70年代に経済建設を試みたが効果がなかった。
70年代の半ばになると、年間国防費支出も韓国が北韓を追い抜く。後に南北の格差をもたらした種子が62年に蒔かれたのだ。つまり、この年始まった韓国の経済開発計画と北韓の「4大軍事路線」だ。金日成は、62年秋に発生したキューバのミサイル事件でソ連が核戦争を覚悟した米国に屈して、キューバに配備したミサイルと核弾頭を撤退するのを見て、自主軍事路線に拍車をかけたという。南・北の選択は、当初はその差が小さく見えたが年月を重ねるほど大きくなったのだ。
第1次経済開発計画が始まった62年の韓国の人口は約2500万人で、人口増加率は年2・9%だった。1次5カ年計画が終わる66年の人口は約2920万人と予想された。
5年間に人口が420万人も増えると、経済成長は難しい。しかも失業率は24%。革命政府は家族計画事業に拍車をかける。
第1次5カ年計画には3兆2145億ウォンの投資が必要だった。電気、交通、通信、住宅などに48・8%が投入され、鉱工業34%、農林水産業に17・2%が投入されることになった。この財源の4分の1程度を外資で調達することにした。革命政府は減る一方の米国の援助に期待できないため、独自の方法を考える必要があった。
自由党政府は58年、湖南肥料の羅州工場を建設するため西ドイツルのルルキ社と契約を結んだ。着工はしたが、国内の資金を調達できず工事は進まなかった。革命政府は、金載圭准将を湖南肥料の社長に任命、資金を果敢に投じ工場建設を急いだ。西ドイツ政府と企業が関心を持ち始めた。金載圭を社長に推薦したのは丁来赫商工部長官だった。丁来赫は3師団で李鐘贊師団長の参謀長として服務したことがあるが、この時、副官参謀が金載圭だった。丁来赫は金載圭が湖南肥料社長として私心なく仕事をしたと記憶している。
政府の外資導入に登場したある外国人がいる。ユダヤ人のサウル・アイゼンバーグだった。朴正熙の近代化革命、その歴史の見えない部分にいた興味深い人物の一人だ。彼はドイツ生まれでナチスの迫害を避け、世界を転々とし日本で成功した巨商だった。主に輸入品の仲介でお金を稼いだ。韓国が59年、西ドイツから導入したシーメンス社の電話交換機も彼が仲介したものだった。彼は日本と韓国の外、中南米、東南アジア、中東などでも多く活動した。
資金が足りない途上国に進出して、政府・企業・銀行・建設会社などを繋げ、資金を提供し事業もまとめる「一括取引の調整者」の役割をした。彼はオーストリアとイスラエルの二重国籍を持っていた。
アイゼンバーグが本格的に活動するのは、5・16革命政権が外資の導入による経済成長政策を推進する時だった。彼は主に西ドイツから次官を調達し、韓国の基幹産業建設につなげた。彼が「一括取引」方式で成した事業のリストは、韓国の基幹産業総覧といえる程だ。(つづく)

 


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