「重点などを話されましたが、我々が恒久的に農業を中心とするという意味ではありません。率直に言って工業化を目指す条件の一つとして、農業を大切にするという意味です。目標はあくまでも工業化です」宋正範が断言した。
1962年1月5日、革命政府は第1次経済開発5カ年計画を発表した。鄭韶永が作った最高会議の総合経済再建計画を基に、経済企画院が5カ月間作業した大韓民国経済発展の青写真だった。
反朴正煕知識人らは「農業中心の産業生産、そして中小企業と内需中心の経済運営」を主張した。彼らの主張通りにしたら、韓国は他の後進国のようになったはずだ。60年代、世界中の発展途上国は「輸入代替工業化戦略」を採用した。韓国の「輸出志向の工業化戦略」は例外的だった。
朴正煕大統領が推進したすべてのことは、必ず数字で報告され、数字で結果が立証されねばならなかった。革命政府の経済開発計画は、数字や統計を通して名分論的な社会を克服していた。
第1次経済開発5カ年計画の序文で、朴正煕議長は開発戦略をこう説明した。「真の民主精神に立脚した個人の自由と創意を尊重する自由経済体制の原則の下、政府の強力な計画性が加味される新しい経済体制を確立することで、民族的宿願である勝共統一を期することができる」
この計画は基本戦略として五つのことを挙げた。
<一、民間人の自由と創意を尊重する自由企業の原則に基づくものの基幹部門に対しては、政府が関与する「指導される資本主義体制」とする。二、政府が直接的な政策手段を有する公的部門に計画の重点を置く。三、韓国経済の究極の進路は工業化にある。その準備段階で電力、石炭などエネルギー供給源の確保、農業生産力の向上、基幹産業と社会間接資本の拡充、雇用の増大と国土開発、輸出増大、技術振興に力を注ぐ。四、国内資源と労働力を最大限に活用し、外資の導入に重点を置く。五、国防費は不可避な自然増額だけを認める。>
李承晩大統領は、復興部が「経済開発5カ年計画」を作って報告するや「5カ年計画って? それはソ連共産党のやり方ではないか」と強い拒否感を示した。官僚たちは、やむを得ず「3カ年計画」に直したという。
朴正煕は、李承晩式の市場経済と民主主義を韓国の実情に合うように直すべきという確信を持っていた。経済は、国が積極的に市場に介入、主導し、政治も国が国民を指導すべきだと思い「教導民主主義」という言葉を使った。「教導民主主義」(後述の韓国的民主主義も同様)や「指導される資本主義」は、コインの両面だった。
朴正煕は意識革命家だった。彼らは自主的な近代化の前段階の韓国、しかも北韓と対決中の韓国は、西欧の市場経済と民主主義を施行する土壌が足りないと認識していた。国家エリートたちが掌握した政府が近代化を通じて市場と民主が機能できる土壌を作るべきということだった。
歴史的発展段階と南北対峙状況を踏まえて、韓国の現実を直視し一部の知識人ではなく、国民大多数の立場で何が国益で、善なのかを決めるべきというのが朴正熙式の実事求是、朴正熙式の主体性の核心だった。朴正煕は一度も市場経済と民主主義そのものを否定したことはない。彼は「韓国の今の状況は、英米など一流国家の制度を教科書的にそのまま適用する段階ではない」と言っただけだ。この主張は野党、知識人、学生の目には、独裁のための自己合理化と映った。(つづく)