海を渡った先人達<14> 先人4人目 神功皇后②

日付: 2019年07月18日 00時00分

 神功皇后は、日本で最初に紙幣の肖像になった人物であることをご存知でしょうか。明治14年(1881年)に、明治政府が発行した1円紙幣の肖像に、何と女性である神功皇后が採用されたのです。この肖像を描いたのは、明治天皇の肖像画も手がけた政府お抱え画家であるイタリア人・キヨッソーネです。想像で描かれた神功皇后は、どことなく西洋人風に見えます。
外国では、国家元首や国王・女王が紙幣の肖像になっているのをよく見かけますが、なぜか日本では天皇や将軍の肖像は一度も採用されていません。ちなみに、戦前に採用された人物は、神功皇后以外に菅原道真・和気清麻呂・武内宿禰・藤原鎌足・聖徳太子・日本武尊の6人です。
ところで、神功皇后について調べていた時に、皇后が天皇に即位していたとの記録が、11世紀半ばに成立した『新唐書・列伝第145・東夷・日本伝』にあることを知りました。それは『仲哀死、以開化曽孫女神功為王』<仲哀が死んだ。その結果、開化の曽孫の娘、神功が王になった>という部分です。この記述には驚きました。
神功皇后は仲哀天皇崩御のあと天皇に即位しており、天皇に漢風諡号が付けられたと考えられる790年頃には「神功天皇紀」があったことになります。日本最初の女性天皇は推古天皇ではなく神功天皇でした。いつ、誰が、何のために「皇后紀」に書き改めたのでしょうか。天皇では都合の悪い理由があったに違いありません。
大胆な推測ですが、明治天皇を現人神に祭り上げた明治政府は、神である天皇を紙幣の肖像にできなかったのではないでしょうか。女性初の天皇である神功天皇を、肖像画として用いるため「皇后紀」に改編し、政府の都合に合わせた物語を創作したとも考えられます。実際、明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、朝鮮半島の主導権を握ることを企てていました。
書き改められた「神功皇后紀」には卑弥呼と壹与に関する記事もあることから、神功皇后に卑弥呼と壹与の姿を重ねているのでしょうが、神功皇后は実際に倭の女王だったのです。卑弥呼や壹与とは、ちょうど120年の差異があります。
次に、神功皇后の出自を探ってみたいと思います。
神功皇后の父は、気長宿禰王とされ、皇后の傍らには、大臣の武内宿禰という謎の人物が常に寄り添っています。この宿禰の「宿」は、日本では<しゅく><やど>、韓国では<スク>、中国では<スゥ>と発音しますが、宿に「すく」と仮名が振られていることから、韓国の発音とほとんど同じであるようです。
「禰」の意味は「自分に最も近い先祖」ですから、宿禰とは「父や先祖は、宿」という意味になります。そこで、韓国に「宿」という姓があるのか調べたところ、見つけることができませんでした。しかし、<スク>という発音に最も近い姓を見つけました。「昔」です。昔という姓は、新羅本紀にある第4代王「昔脱解」(在位57―80)の姓です。


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