天照大神=壹与は、なぜ「与謝宮」に移ったのでしょうか。
与謝宮は、今の京都府宮津市にある智恩寺の「文殊堂」の場所にあったということです。推測すると、鮮卑族の慕容廆(しようかい)による夫余への襲撃に対して、母国を救う目的で与謝宮に移ったのかもしれません。与謝宮があったという文殊堂は、港のすぐそばに位置し、韓半島に渡るには絶好の場所となっています。
壹与は、285年頃までに与謝宮に移り、軍を整え、285~286年頃に自ら軍を率いて韓半島に渡り慕容廆と戦ったようですが、それに関連すると思われる記事が「新羅本紀」にも見出せます。
「儒禮尼師今」四年(286年)四月の条に、『倭人が儀式を司る所を襲い、火を放って燃やし、捕虜一千人を連れ去った』とあります。千人も連れ去ったのは、慕容廆と戦うための戦力とした可能性があります。しかし、慕容廆と戦った結果敗れ、半島ですでに亡くなっていたか、瀕死の重傷を負って海に逃れ、倭国に帰って来て与謝宮で亡くなり、最初に今の京都府福知山市大江町に鎮座している「皇大神社」の境内に葬られたと推察されます。
皇大神社は「元伊勢内宮」とも呼ばれ、境内には樹齢一千年以上にも及ぶと見られる杉のご神木が数本、霊験あらたかにそびえ立っています。また、本殿は「神明造り」という形式で建てられていて、その景観は、まさに弥生時代に見られる「高殿」そのものです。そして、その本殿を中心に約80社の境内社がぐるりと囲んでいます。その様子は、壹与に仕えていた人々が壹与を守るように取り囲んでいるかのようです。
このようなことから、壹与が亡くなった年は、慕容廆と戦った285~286年頃であると確定できそうです。生まれた237年頃から勘案すると、死去した時はおよそ50歳ということになります。そして、元伊勢内宮とも呼ばれる皇大神社の場所に葬られ、その4年後の290年頃に伊勢神宮を造り、御魂を移したようです。垂仁天皇二十五年に、『天照大神を豊耜入姫からはなして倭姫命に託された。そして、斎宮を伊勢国の五十鈴川のほとりに建てた』と記されています。
奈良盆地の三輪山のふもとに「箸墓」と呼ばれている前方後円墳があります。現在までの発掘調査の結果によると、築造の年代は280~300年で、全国最古級の前方後円墳であり、この古墳から古墳時代の開始とされています。
壹与の死亡年とほぼ一致しているこの「箸墓」は、壹与が、皇大神社から三輪山のふもとに改葬されたことを意味しているように思います。
神功皇后は、日本書紀で唯一単独の「皇后紀」として記された人物です。開化天皇の曽孫「気長宿禰王」の娘で、仲哀天皇二年に皇后に立てられました。仲哀天皇の急死後、自ら武装し、軍を連ねて新羅国に乗り込んだとされ、男勝りで勇敢な人物像が浮かんできます。また、名前の「気長足姫」の意味は「いつまでも十分に元気な婦人」ということですから、長寿だったのでしょう。