宋正範と2人の大領は経済企画院設置案を作り内閣3回、国家再建最高会議で1回、報告会を行った。内閣からは経済企画院の権限が強すぎるとの反応だった。宋正範に経済対策起案を頼んだ金裕澤財務長官も財政と金融の補完関係を理由に、「予算局の移転は財務部の伝統的な機能を損なう」と反対した。意見が百出し、内務部からの統計局移転のみが順調だった。
経済企画院長を副首班の閣僚にする問題は、憲法学者出身の朴一慶法制処長が解決策を出した。朴処長は、経済企画院長を閣僚にするものの、内閣首班が職務を遂行できないとき、経済企画院長がその職務を代行するように序列を決めることで決着を付けた。この前例は後に副首相制度で確定される。
この混乱のさなか、宋正範が朴正煕議長を訪ね、「経済企画院の組織の問題は障害が多く難しいです」と言うと、朴議長は、「目的と手段が良ければ、そのまま押し通しなさい。政策は一貫性がないと後に何もできません」と言った。
朴正煕議長が主宰する最高会議でも紆余曲折が多かった。最高委員たちが経済企画院案に対して批判的に質問した。宋正範の回顧。
「その時は、インフレや失業、食糧不足などで挫折感を感じている国民に、未来像とその手段を提示せねばならぬ逼迫した状況でした。にもかかわらず、経済が分からない最高委員たちは、焦りのため代案もなく神経質でした。ところで、朴正煕議長が経済企画院の原案を全面的に支持しました。彼は、精巧な修辞を使わず、この機構で5カ年計画を推進しようと結論を下しました。誰も反対できませんでした」
革命政府は7月22日、経済企画院の新設を公布した。初代の院長に金裕澤財務長官が起用され、生みの親だった宋正範が副院長となった。朴正煕議長から最高会議の「総合経済再建計画」を参照に、「第1次経済開発5カ年計画」を作るよう指示された金裕澤院長と宋正範副院長は会議を開いた。高速道路の建設主張など、多くの意見が出た。方法論はなく、目的だけを打ち出す浮ついた雰囲気だった。最初の課題は成長率だった。最高会議の「総合経済改革計画」は、年平均7・1%だった。しかし、李秉喆三星物産社長が会長を務めた韓国経済人協会(全経連の前身)は経済成長率が少なくとも年10%でなければならないと主張した。一方、学界は「外国でも7%成長は例がない」「お金もないのにどうして7・1%の成長を望むか」と、机上の空論と批判した。
宋正範は世界銀行(IBRD)傘下の経済開発研究院で学んだ知識を活用した。各国の経験者たちは成長率を策定するとき、政治的な目標値としての成長率を絶対に避けろと強調した。彼らは宋正範に「失業者を救済する最小値を基準としなさい」と忠告した。宋正範は忠告に基づいて基準値を定めた後、輸出政策を考慮して年平均成長値を策定したという。その結果は、最高会議の7・1%と合致した。宋正範は「結果的には財界と学界の中間値に見えるが、実は計算による結果」と証言した。
次の問題は、農漁村発展計画だった。朴正煕議長は機会さえあれば「農村を発展させねばならない」と強調したが、高度成長のためには1次産業の「相対的後退」を甘受せざるを得なかった。商工部と農林部の摩擦も大きかった。朴正煕議長は葛藤を報告すると、決まって「お互い協議して円満に妥結しなさい」と言った。結局、対外発表は「農工併進政策を推進する」としたが、実際は種子改良と肥料工場の建設に配慮した線で工業化を中心に決定した。(つづく)