ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~12 知恵で乗り切るつらい雨期

「北送事業」60周年を迎えて
日付: 2019年07月03日 00時00分

たんぽぽ

 何もかもが足りない暮らしには「知恵」というものが必要だ。
6歳の姉と8歳の兄が知恵を出し合って作ってくれた夕食を食べながら、夏空も暗くなった。電気は通っておらず代わりのロウソクも石油もないので、明るい時間が長い夏は貴重だ。兄は学校から帰るとあれやこれやと働いた。薄っすらものが見えるうちにやる事を済ませようと、私も指示されて手伝った。
家事が終わると兄は母が作ったタラ肝油を瓶に入れて、裁縫糸を編んで作った灯瓶が灯す明かりの下で宿題をした。やる事がない私は兄の宿題を見ながら質問したり、兄のノートのページを一枚せがんで兄のテキストを真似して描いたりしていた。
週に2回、兄にはクレヨンで絵を描く宿題が出た。そのクレヨンを使いたくてお願いしても、それだけは使わせてくれなかった。12色のクレヨンを使いたくてずっと待っていたものだ。兄がクレヨンを使う曜日まで覚えて、その日をいつからか心待ちにしていた。
兄は線一本でもクレヨンで描くと怒った。仕方がないので、兄が使い出してバラバラになっているクレヨンを、短い順から箱に戻すことで満足していた。たまに絵に色を塗らせてくれることもあった。
後になって自分が学校に入ってから、質が悪くて滑らかに色を塗れないクレヨンさえも貴重なものであることを知った。
7月は雨が連日降り続く時期で、保育院の前の道路はたまに小川のようになっていた。家に帰るときに真っ黒な小川ができていると大変だった。たまにマンホールに子どもが巻き込まれて死亡したりもして怖かった。そのときは、兄が戦時非常用品の布背嚢の紐を持って迎えに来てくれた。私の腰に紐を結んで道路沿いの壁を手で押しながら、私が流されないように注意を払ってゆっくり歩いた。水は私の腰の位置を越える時もあった。大通りに出ると水位は低くなった。
7月の雨期はとても辛かった。水道からは泥水が出て、大きな甕に水道水をためて濾過しても色は付いたままだった。それを沸かして飲んだ。傘は贅沢品で、ビニールの雨服を何回もアイロンで修理してたけど普通に濡れた。服はよく乾かないし、湿気と低気圧で台所の火が消えてしまうこともあった。兄がいろいろやってみても夕食が作れなくて、食べないで寝たりした。そんな夜に、お腹が空いてか気持ちが痛んでか分からないが、兄は台所で小さい声で泣いていた。雨が連続して降ると、なぜか兄のことが心配だった。
辛い雨期も過ぎ暑い日々が続くようになると、保育院の音楽班は忙しくなった。9月22日は、金日成の妻で金正日の母であり「朝鮮の母」と金正日が呼称を与えた金正淑の死去25周年にあたる。その準備で、院長先生をはじめ院内中が忙しく働いた。
展示物を作って院内に飾ったり、先生方も故金正淑を賛美する簡単な演劇を準備して区域の宣伝扇動部の行事に参加したりしていた。「朝鮮の母」に対する様々な行事で、私の家も町も保育院もサワサワと落ち着きがなかった。
音楽班も先生方の演劇に一緒に参加することになって、日々夜中まで練習していた。先生方も音楽班の子どもたちも、冷房設備が何にもない暑さの中で疲れていた。それがみんなの顔に表れていて、先生たちはピリピリしていた。怖くて嫌だった。
そんな中でもガヤグムを見ると嬉しくて、音楽班が先生たちと出かけたらすぐガヤグムを弾いた。ドレミを綺麗な音が出るまで弾いた。自分がガヤグムに触れる時間は多くないことを知っていたので、触れるときに熱心に弾いた。
ある日もガヤグムを弾いていて、当直だった担任が近づいて来るのに気づかなかった。担任の声が聞こえた。「手が痛くないの?」顔を上げて見たら先生が立っていて、怒られると思いながらガヤグムを置いて立った。
担任が「手が痛くないの、手を見せて」と私が見せる前に私の手を持って広げた。手先が腫れていて先生が触ったら痛かった。先生は目を大きくして私を見た。私の好きな綺麗な先生だったが、顔がより綺麗に見えて二人で目を合わせて微笑んだ。「出身成分」などを知らない子どもが、変な国の重要部分に入ろうとする瞬間だった。  (つづく)


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