大韓民国の建国史(158)経済開発の主務部署を建設部と名付けた経緯

日付: 2019年06月26日 00時00分

 丁哉錫は翌日、旧国会議事堂にある最高会議事務室へ行った。まるで決戦の前の作戦指揮本部を訪れた感じだった。戦闘服の革命委員たちは拳銃を腰に下げて粛然と座り、正面には張都暎陸軍参謀総長と見知らぬ少将がいた。司会者が開会を宣言するや委員たちが立ち上がって、革命公約6個項を一緒に暗唱した。
覇気満々の丁哉錫課長は雰囲気に圧倒されず、復興部の拡大改編案を熱心に説明した。
「6・25戦乱の復興課題は一段落としたため、これから政府主導の経済開発に着手すべきです。そのためには中央に強力な開発センターが必要です。復興部の主な機能(企画と調整)に財務部の予算局と内務部の統計局を吸収、内閣序列の首位にせねばなりません。名称も復興部でなく、経済企画院とするのが妥当です。複数の部にわたる大手術は、現在の条件では直ちに実施できないので、まず復興部だけを開発部に拡大、改編し緊要な第1次経済開発計画から立案させるのが良いと思います」
このとき、復興部には企画局と調整局があって、産業開発委員会、地域社会開発委員会、国土建設本部を臨時機構として抱えていた。丁哉錫は、この機構を統合して総合企画局、物動計画局、国土建設局、地域社会局に再編することを提案した。丁課長の報告が終わると張都暎議長は、社会棒を打つ前に隣を見て「どう処理しましょうか」と尋ねるではないか。やっと丁哉錫も「この寡黙な少将が革命を主導したという朴正煕だな」と気づいた。
朴正煕は不愛想な表情でこう言った。「貴官の報告内容は、私たちの革命軍の意欲をよく反映した。建議した通りまず第2案を採択して経済第一主義を実践し、これから革命基盤がある程度確立されたら1案の経済企画院へと移行しましょう。したがって内容は報告案の通りに決定するが、2案の開発部の名称だけは建設部と直して欲しい」
丁哉錫課長は反論を展開した。 「それは困ります。”開発”は国民経済全体を包括しますが、”建設”とすると1部門に限定されるので、これは復興部の拡大、強化ではなく、むしろ縮小、弱体化となります」
「理屈ではそうだろうが、開発という言葉は私にも不慣れなのに一般国民が分かるだろうか。貴官の報告も、国を積極的に建設するという意味だから、国民が分かりやすい建設部にしよう」
丁哉錫は承服しなかった。彼は「開発」という言葉を国民の間に広げるべきだという信念を持っていたのだ。「もし建設部と呼ぶようになれば、主務局を国土建設局に変えねばなりません。建設部という名称をご希望なら、経済建設部とするか、または再編を一旦保留し、経済企画院に転換することが良いかと思います」
「革命家は経済だけを建設するのでない。政治も、社会も、文化も全部建設すべきだ」
建設部の名称をめぐる丁哉錫課長と朴正煕少将の公開論争が、最高委員たちの前で続いた。丁課長がまた反論したためだ。
「当部は援助交渉など対外協力があるため英語名称が重要です。今後、援助資金も増やし外資導入も促進せねばならないのに部名をMinistry of Constructionとすれば対外説得力が弱くなります」
朴正煕はしばらく考えて言った。「よし、では韓国語では建設部とし、英名は原案通りMinistry of Developmentとしよう」(つづく)


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